2017年9月22日 (金)

また本が増えました

久しぶりに教会に行きました。
このブログにも、教会のことはあまり書かないので、
どうなっているのと思う人もいるかもしれませんが、
私がキリスト教徒であることには変化はありません。
ただ本来のイエスの教えは
もっとちがったものではなかったかと思って探求しています。
自分の信仰をさらに深く学ぶために、
キリスト教とは何かを学ぶために、
教会からは少し距離を持とうとしたのです。


カトリックのすばらしさは自由に休暇を与えてくれることです。
カトリック教徒としての籍は
私の出生戸籍のようにきちんと登録されていますので、
こちらがどんな心境でいても、変わることなく
どこどこで洗礼を受けたカトリック教徒としてずっと存在しているのです。
教会に行かなくなったら
背教徒となるプロテスタントとは事情が異なります。


クリスマスだけ復活祭だけと
堂々と言っているカトリックの人も稀ではありません。
また何年も離れている人も沢山・・・
それらすべて認めていて、すべて自由であるというのがカトリックです。
なぜなら、戸籍上は立派なカトリックですから。
死ぬ間際に真面目?になるかもしれませんから。
もちろん、毎週まじめに、また週何回もご奉仕に行っている人も沢山います。


属している教会内にある書店を久しぶりに覗いてみました。
この書店は修道院の管轄ですが、
そこにおかれている本の種類によって、
現在のカトリックが歩もうとしている道がわかるような気がします。
カトリック関係の本、プロテスタント関係の本、ユダヤ教、仏教、
そして禅、イスラム教、またかつてカトリックが異端としてきた
キリスト教神秘主義に関するものなどがおかれています。
あきらかに今もカトリックが異端としているものは除いてますが
(ものみの塔、統一教会、モルモン、また様々な新興宗教など)


また買って帰りました。
4冊です。重かった。
「禅キリスト教の誕生」佐藤研、
「イエスとブッダ」ティクナットハーン
「イエスと空海不二の世界」ペテロ・バーケルマンス
「異端カタリ派の歴史」ミシェル・ロクベールです。
4冊で重さ数キロ


一時空いていた本箱がこの数か月でまた埋まってきました。

イエスの教えとブッダとはとても共通点があります。


2017年9月22日

2017年9月13日 (水)

悩めるスロバキアの青年

家を出て1時間余、難波で電車を乗り継いで着きました。
何度も来ていても、ちゃんと行くかなと思います。
ちょうど会社帰りの人たちといっしょになり、
数十万人が行きかう混雑する駅を歩いていくからです。


というわけで、今日もお馴染みの戸を開けたら、
ゴーデンリバー犬のこまなちゃんが出迎えてくれました。
私は犬が大好きです。
ときどき散歩していると、犬が立ち止まって私をじっと見てくれます。
どこか共通点があるのでしょうか。


部屋の奥の方にこれはまたハンサムというか
彫刻のような顔をした若者がすでに来ていました。
今日のゲストHさんです。
スロバキアの青年です。
黒に近い肩の中程まである長い髪、白い肌、
深くて大きな焦げ茶色の瞳。
大きな身体なのでゲルマンかと思ったら、スラブ人だそうです。
ロシア式の名前・・・・スキーとなっています。


通訳もいたのですが、「日本語でやってみる」ということで、
1時間ほど一生懸命に話しました。
終わったとき拍手したくなりました。
外国語で話すのは大変なことだと思います。
話している途中何度も大きな声で「ウハー、ハー」というので、
日本語につまっているのかなと思ったのですが、
一部はそうであり、もう一部は
あまりにも自国の歴史の説明をするのにため息が出てきたようです。


それほどスロバキアの歴史は過酷そのものであり、
本当の独立を遂げたのは、1993年でその後も混乱しているようです。
ハンガリーに1000年支配されていたということ、共産時代の苛烈な生活。
聞いているほうも「ウハー」といいたくなるほどの歴史でした。


生きることが命がけの国・・
そこから日本に来る人には日本人の生活が
ふにゃふにゃしたような生半可な生き方に見えるのかもしれません。
かなり日本人に対して厳しい見方をしていましたが。
おかれた環境がそれだけちがっているのでしょう。
日本人は平和に慣れ、それが普通なのですが、
大変な国から来た人たちから見て、
ぼけっとしているような感じがするのでしょう。
まあ、事実そういうところもあるのでしょうが・・・・


「わたしには、母国はない。私は一人だ。」Hさんの叫びです。
母国において未来を見つけられないのでしょうか。
若者は国を出ていくといいます。
彼は酒を飲んで荒れたことがあったが、今はやめた。
仏教に触れたということです。
精神的な救いを求めているように見えました。


今白人社会では仏教に関心を持つ人が増えています。
仏教=日本と考えている人もいるみたいです。
仏教の心髄に触れれると思っていたのに、
期待が大きかったのでがっかりするということもあるのでしょうね。
でもよく見れば、しばらく日本に住めば、
理屈ではなく日本人の精神の中に
禅や仏教意識が生きていることがわかるのですが。
Hさんが、滞日している間にそれを実感できたらと願っています。


人種に変わりなく、国に変わりなく、若者は真実に深いものを探している。
今日のハンサムゲストのHさん、
人生は辛いことも多いけれど、上昇ある人生にできるのは
自分だと信じて生きて欲しいなと心から願いました。
スロバキアの国にも、安心と平和が訪れますように。

2017年9月13日

 

2017年9月 3日 (日)

バベルの塔展へ

バベルの塔展の案内です

バベルの塔の絵を見に行かない?」と夫に言ったら、
始めは何でかしぶい顔をしていましたが、
しばらくすると「行こうよ」ということで、
大阪の国立国際美術館にでかけました。


あとで夫の説明によると、
「教会ではバベルの塔の話は
人間の傲慢さに対する神のさばきだと教えられたから。
どうしてそんな神のさばきの絵を見に行きたいのかと思った」
ということでした。
教会 (特にプロテスタントは罪と罰が好き)で、
いつも罪とかさばきを聞かされたので罪アレルギーになっているのです。


「教会では確かにそのように教えられたし、
事実聖書に書かれているしね。
でも今の私には別の解釈があるような気がするの。
この絵は失敗を乗り越えて進む、希望ある人類を描いたと思うの。
何度も神に背き、まちがいをする人間だけど、
その度に間違いを学んで、賢くなっていくのだと思う。
だからバベルの塔は希望を与える絵なのよ」と・・・私の見解。


教会関係の方たちも多く来ていたようです。
周りの会話がイエス様とか聖像とか
教会言葉がしばしば聞こえてきましたから。
バベルの塔を罰として受け止めるか
未来への希望をもち続けるたくましい人間の絵として受け止めるかは
それぞれ異なってきますが。


バベルの絵とともに沢山の版画絵もあり、
これは幽界というか霊界をイメージしたような感じを受けました。
目が弱いので版画の絵はよくわからなくて、
本を買って家でゆっくり見ることにしました。
バベルの塔の絵は想像したよりも小さいもので、
その真ん前で見るために30分並びました。


その拡大版が大きく貼られていましたが、
絵の中にはまるでミクロの世界のような
肉眼では見えにくい世界が描かれているのです。
人間の技だとは信じられない、
イメージに富んだ不思議な世界が広がっているのです。
この絵は神の罰ではなく、
未来に向かって進むたくましい人間の姿だと思いました。
まるで絵の中から人の声や工事の音、機械の音が聞こえてくるようです。
上の方は建物が壊れていますが、
下の方では同じ作業が一心不乱に続いています。
上が壊れていることにも気づいていません。


2800円の重い本を買って帰ったら、
思わぬプレゼントがついていました。
それは75㎝×60センチの迫力あるバベルの塔のの写真でした。
すごい!
早速、居間の壁に貼り、毎日見ています。
励まされますよ。
失敗を恐れるな・・と言われているみたいです。
このエネルギーをご覧・・・と。
数えられない人たちがきっちりと描かれ、
それぞれの役割を果たしています。
空の鳥も海に浮かぶ船も雲までが、人間を応援しているようです。
(実は神々も、応援をしているのかもしれません)


********
聖書 創世記第11章1節~9節


「全地は同じ発音同じ言葉を用いていた。東の方から移り住んでいるうちに、
シンアルの地に平野を見つけ、そこに住みついた。
彼らは互いに言った、「さあ、煉瓦を造ってよく焼こう」。
彼らは石の代わりにアスファルトを用いた。
次に彼らは言った、「町を造り、頂が天に達する塔を建てよう。
われわれの名を高め、われわれが全地に散らばらないようにしよう」。
主は人の子らが建てた町と塔を見るために降ってこられた。


そして主は仰せになった。「見よ、彼らはみな同じ言葉をもつ一つの民である。
これは彼らの業の初めにすぎない。
これからも彼らが行おうと思うことで、成し遂げられないものはないであろう。
さあ、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を乱し、
互いの言葉が分からなくなるようにしよう」。
主はその人たちをそこから全地の面に散らされた。
彼らは町を建てるのをやめた。それでその名はバベルと呼ばれた。
主がそこで全地の言葉を乱されたからである。
主はその人たちをそこから全地の面に散らされた。
(フランシスコ会聖書)


神は人間が強くならないために、言語を乱され、
世界中に散らされたのですが、人間は神の希望通りになりませんでした。
今ではバベルの塔よりもはるかに高い建物を
言語の違いを超えて、造り上げてしまいました。
あっちもこっちも、雲をつくような高い建物を。
それどころか宇宙までも飛び出しました。


神は人間を懲らしめるために次の計画をされるでしょうか。
それとも大きく逸脱しないかぎりは大目にみられるのでしょうか。
それとも、真実は被造物である人間の成長を喜び見守っておられるのでしょうか。
バベルの塔は、今日もいろいろなイメージを与えてくれます。


2017年9月3日

2017年8月26日 (土)

することがないの!

朝8時過ぎ、ときどき会って話をするMさん(71歳)がやってきました。
朝が早いので何ごとかと思って戸を開けると、
「賞味期限が今日だけど・・」といって
いただきものをもってきてくれました。
でもそれはついでのことで、
本当は「話す人がいないの。毎日何をしていいのかわからないの」でした。
玄関の戸半開きのまま、20分ほど話ましたが、
彼女の心の奥底にある暗闇のような寂しさを私にはどうすることもできません。


一見何も不自由してない生活、
ご主人は怒ったこともなく、優しい人。
70歳の今も仕事に出ておられる。
彼女は結婚以来、専業主婦、
子供も立派に育て、良い子ばかりで何も問題なし。
ただ夫婦間には殆ど会話無しだそうです。
何がどこに不満があるのか・・
ただ彼女は社交性があまりなく、そして唖然とするのは、
子供の頃から大好きなこと、
夢中になったことは一度もないという珍しい人。


だから今も興味を持つものはなく、
家がいつもきれいでないと落ち着かないので、家はいつもピカピカ。
本一冊なし。新聞も読まず、テレビも見ず、本も読まず。
関心は家の掃除と娘と孫のことのみ。話はそれだけ・・
私にはあまり興味がないので、話題に困り・・


実はこのようなタイプの人は多いのです。
8年前に亡くなった私の従妹で元ピアノ教師。
ご主人のいない間に、
「今何しているの? 私は何もすることない!」と
悲鳴にも似た電話をたびたびかけてきました。
「何かすることないの?」と聞いても、何もないと言います。


原因は何かよくわかりませんが、
薬漬け、精神不安定、話もはずまず。
それでも従妹なので、共通の話題は探せばあるので、
1時間くらい話していましたが。
生活は豊か。子供は立派な所に就職。
真面目なご主人。謹厳実直を絵に描いたような人。
彼女自身も親から受け継いだお金も十分すぎるほどある。
どうしてこんな叫びが出てくるのか。
ただ夫婦の会話は無し。
顔もあわさない家庭内別居でしたが。


彼女はテレビが友達だった。
そしてある日、寝たままの姿で
死んでいたのをご主人が見つけたということです。


老いた女性が今日もにぎやかに歩きまわっています。
でも家の中でじっとしている人もいます。
一見ちがうようで、実は心の奥底に何ともいえない闇の部分を
かかえている人が多いのではないかと思ってしまいます。
まぎらわそうとして、人と接触してみても、
一人になればその闇の部分がまた浮かんでくる。
辛く、寂しく、悲しく、解決できなくて、さらに沈殿していく。


60歳では何とかなるにしても
70歳で「どうしたらいいの?」と言われても、
それまでの人生の総決算のとき、
そのまま人生の終着へと行くしかないのではと思います。
男性のことはよくわかりませんが、根本には夫婦問題があるように思います。


仲の良かった夫婦は一人になっても、
亡き人の思い出というか霊というかいつもいっしょのようです。
毎日仏壇の主人に話したり、
何十年たっても花をささげたりしています。
未亡人になっても落ち着いたいい表情です。
会話がない夫婦はどんなことかよくわかりません。
毎日2時間以上も私は夫と話していますから。
生きる方向が同じだからかもしれません。


70歳、80歳になった方々、
新しいことは若いときから変化を恐れない性格ならいざしらず、
無理かもしれませんね。
せめて自分の伴侶に対して理解と暖かい心を持って生きていきましょうよ。


2017年8月26日

2017年8月17日 (木)

シーボルトの日本博物館へ

シーボルトの日本博物館の蘇り

今日も真夏日、
しかしまだまだ気力、体力?があるのか、外に気持ちが向かい始めます。
シーボルト日本博物館のお知らせが目に留まり、
かの有名なシーボルトが日本から持って帰った6000点のうち、
その一部が150年ぶりに日本で蘇るとのこと・・・
行かなければという思いがまたまた生まれ、夫をさそって出かけました。


場所は万博の中の国立民族博物館です。
我が家からみれば、生活空間の一部のような場所です。
しかしこの炎天下、会場まで徒歩15分かかります。
万博で会場までシャトルバスが出ているので、今日は初めて利用しました。
クーラーの効いたバスは快適、すぐ着きました。
バスのおかげで体力温存ができ、
かなり広い会場の全展示品を一時間半かけてゆっくりと見学できました。


これらはすべて、日本の物であり、
それも開国前の大変貴重なものです。
日本人の高い技術、その芸術性、
当時の人たちの高い知性に改めて驚嘆しました。
これだけの力を西洋がやってくる前に蓄えていたのですね。
その蓄えがあったからこそ、
短期間で西洋に追いつくことができたのだと思います。


幼児の玩具にいたるまで、細かな装飾が施されていました。
親の気持ちが伝わってきます。
仏像の美しさ、戦いに使われたというほら貝、数々の陶磁器、
そして何よりも世界一とされる、漆塗の工芸品は最高です。
西洋のきらきらと輝く色彩の工芸とは違いますが
その底光りする美しさ。


開国前の日本はどれだけ知力をしぼったかを想像されます。
長い歳月、大陸側からの影響はありましたが、
自国中心の世界観で生活して来たのです。
それが西洋という価値観も異なる大きな波が
日本を覆うことになったのですから・・
当時の方々は大変だったと思います。


有名なシーボルト事件も起こり、
シーボルトの日本の妻子もそれからシーボルトの弟子たちも、
関連する人たち50数名に悲劇が襲いかかりました。
自国を守ろうとする日本側、
未知の西洋の新しい文化を吸収したい日本の人たち、
その時代に生きた人々の悲喜こもごもの物語が生まれました。
シーボルトは自分に協力してくれた日本人に罪が及ぶことを恐れ、
日本への帰化を願ったのですがかないませんでした。


国外追放で故郷へ帰りましたが、
彼は本当に日本を愛していたのです。
学者シーボルトは日本に関する膨大な資料を持ち帰りました。

シーボルトが調査研究した分野は
宗教、政治、習慣、法律、地理、農業、音楽、歴史、風俗、
民族、薬草、言語、美術、医学、植物、動物、鉱物等。


また収集し持ち帰ったもの
硬貨、楽器、漆器、地図、書物、彫刻、玩具、絵画、
武器、武具、植物、工具、衣料品、調度品、陶磁器、日用品などです。
この持ち帰りの品々の一部が今回公開されました。


ヨーロッパで初めて日本の正しい姿を知らせたのはシーボルトでした。
彼は死ぬまでヨーロッパで日本博物館を開設するために働き、
それが原因で体力を消耗し亡くなるのです。
70歳になったシーボルトはまだ日本への思いが断ち切れず、
死の直前まで「わたしは平和の国へ行く」とつぶやいていたそうです。
ヨーロッパの人たちが日本への正しい認識を持てたのは、
シーボルトの貢献でした。
シーボルトの亡くなった日は私の誕生日。
何か特別に感じさせられる思いでした。


会館を出て、「どうする? バス? 歩く?」と夫と相談。
何か元気が出てきて、帰りはまだ暑い昼下がりでしたが、
・・駅まで歩きました。



2017年8月17日

2017年8月 8日 (火)

恐竜展2017

恐竜展の会場です

いい年の老人が恐竜展へと思いましたが、
実際に生きていた恐竜たちの骨が展示され、
こんな機会はあまりないとのことなので、暑い最中、夫と行きました。
この度は見学にとても乗り気になったのは、夫の方です。


夏休みになって初めての日曜日、
どんなに沢山の人たちかと覚悟していきましたが、
近くの海遊館に行く家族も多く、思っていたよりはゆっくりと見学できました。
開催は大阪南南のATCホールです。
すぐそこに海が見え、九州に行くさんふらわあがいつも待機しています。
いつかもう一度あれに乗って九州に行ってみたいなと思ったり・・
会場は恐竜さんがいっぱいです。


前日スピルバーグのジェラシックパークの録画を見ていたので、
恐竜の種類や性格などがよくわかりました。
ウオー、ウオーという恐竜たちの叫び声、全地を走り回る巨大な姿。
今目の前で見るその大きさは言語に絶するほどです。
とにかくすごい。
実際の骨を生前のままに再現してあるのでから、
そのおおきさはとてつもなく大きいです。
人間は一足でぐにゃりです。
でも恐竜の視力はどうだったのかしら。
人間なんて小さくて、小石ぐらいにしか感じないでしょうね。


かつてあれだけの巨大動物が地上を闊歩していたのです。
恐竜だけでなく、クマの先祖も狼の先祖も、そして植物も巨大で。
2億年以上もの長い間、この地上を生きていたのですね。
でも恐竜の体は怖いけれど、恐竜って何となく可愛い感じもします。
子供たちが大好きな気持ちもわかります。
会場の子供たちは夢中でした。
図鑑片手に質問する息子さんにお父さん大変のようでした。


私は恐竜たちと聖書の冒頭の箇所、
「はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、
神の霊が水のおもてをおおっていた。」創世記1-2


この言葉と恐竜の生きた時代を
どういうふうに考えたらいいのかわからなくなりました。
地は形なくとありますので、まだ恐竜は存在しません。
聖書を読めば人間が出てくるのは2ページ目なので、
すぐに人間が誕生したように思うのですが、
そこにいたるまでには光とやみ、
すなわち夜、夕、朝、水、大空、陸、海、草、果樹、星、魚、鳥、獣が生まれ、
その後ようやく人(男女)が創造されたのです。
恐竜はこの聖書の箇所のどの辺に存在したのでしょうか?
こんなことを考えるのは変でしょうか。


昨日(5日)は、ジェラシックワールドを録画で見ました。
前回のジェラシックパークもそうでしたが、
遺伝子操作をして恐竜を作り、
金もうけに利用する悪辣な人間の物語で、
映画監督がメッセージとして、生命を弄んではならない。
それはいつか反撃されると警告しているようでした。
ジェラシックワールドは恐竜の反撃ですね。
恐竜展や恐竜の映画録画を見て、遠い時代の地球の有様を思い描いて、
何か厳粛な気持ちになりました。
恐竜も創造主の作られたものですからね。



2017年8月8日

2017年8月 1日 (火)

日野原重明先生の講演へ

日野原先生の病院葬です

7月30日の読売新聞の記事に
「日野原さんの病院葬に4000人」とありました。
青山の葬儀所で営まれたそうですが、
式の前には皇后様も弔問されたそうです。


私は日野原重明先生の講演を聞きたさに夫と関西でしたが、
かなり遠くまで行きました。
もう6年ほど前ですので、先生は98歳くらいだったのではないでしょうか。
幸運にも、長い間並んでやっとかなり前の方に席がとれ、
ほっとして座っていると、
真ん中の通路を隔てて(通路は狭い)隣の席に
日野原先生が座られたのです。
普通の人のように、そっと腰掛けられたのです。
私はびっくり・・・・


司会者の方が「日野原先生は・・・」と呼ばれるので、
先生は立って檀上に上がっていかれました。
先生の人柄です。
観客と同じ席にそっと座っておられる。
本当に間近で先生に会いました。
感激でした。
そのときも約1時間以上の講演を立ったままなさいました。
終始にこにこして・・・
誰でも包み込むあの優しい笑顔で・・
そして鳳蘭さんとダンスの披露もしてくださいました。
鳳蘭さんの歌とダンスは美しくてうっとりしました。
鳳蘭さんは相変わらず、美しい方でした、
それがたった一度お目にかかった先生の生身の姿です。


あとはテレビや書物で先生のことを知っていましたが、
亡くなられて改めて、
105年の見事な生涯に尊敬とともに圧倒された気持ちです。
人間としての真摯な生き方。その品の良さ。
そして何よりもキリスト教徒であるけれど
もそれを強調されることはなかったし、誰とでも隔てなく、
心からの友として交流されました。
本物のクリスチャンだったのだと思います。
神を愛し、人を愛し、自分に与えられた義務を愛を持って全うされた、
それを実際に身をもって全うされた模範となるべき偉大な方でした。


足元にも及ばない小さな私ですが、何もできないような私ですが、
気持ちだけは先生の精神を見習いたいと思います。


先生は愛する奥様の待っておられる天国へ行かれました。
神さまの懐の中で、奥様といっしょ・・そこが一番の憩われるところでしょう。



2017年8月1日

2017年7月13日 (木)

蓮の花

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暑い日でしたが、蓮の花を見に万博公園に行きました。
最高に美しい花々が慎ましい姿で咲いていました。
気品と謙虚とそして何よりも浄化された精神を感じさせます。


最近私は「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著を読んでいますが、
その中に蓮の花について、このような記述がありました。


「蓮の花は、インドにおいては昔から神性の象徴とされている。
その花びらが開いてゆくありさまは魂の広がりを示唆し、
泥の中から生長して、しかも清純な美しさを保つ姿は、
永遠不変の愛を約束する神の霊を表すものとされている。」


本当にその通りで、心が洗い清められるようです。


パラマハンサ・ヨガナンダの本をもう一冊紹介します。
「パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」スワミ・クリヤナンダ記述。三雅出版

この本によって、諸々の宗教の意味、
特にイエス・キリストの真の意味がようやくわかりました。
不思議ですね。
インドの聖者に教えられました。
教会とか、イエス・キリストとか、よくわからなくて、
悩んでいる人があったらおすすめします。
生きる意味について、これほど明確に言った人はいません。
私の心の師です。


このブログはしばらく休みます。
魂の旅に出ます。
それは私の内奥にあるという神への道にむかって・・・です。


2017年7月13日

2017年7月 5日 (水)

父の思い出2

人生の終わりに近くなってみると、
自分の人生で出会った様々な出来事は
すべて益になったのだとわかります。
どんなことでもです。
すべてがその人にとって、成長になるため必要なことだったのです。
よく人生行路を完了させるために、
人間の一人一人には誕生したときから守護者がついているといわれますが、
本当にその通りだと思います。

*********

農協の運輸の部門で次長までやっていて、多くの部下からも慕われ、
それなりに生活も安定していましたが、
養父は農協の運輸部門が無くなることにより、職を失ったのでした。
頭を下げることも、自分より能力のない上司のもとで働く気もなく、
生活のために慣れていた運送業の仕事を始めたのでしたが・・・(44歳)
資本も何もない、全くゼロからの出発でした。
普通の家が仕事場となったのでした。


その頃は日本が貧乏だった時期から徐々に上り調子になり、
国富も増し、オリンピックに向けて更なる前進に向かう時でした。
(60年前からのことです)
大きな団体組織を背景にしていた運輸の仕事と、
資金も何もない個人の仕事の大変さは今も昔も変わりありません。
商売とはお客様あってのことで、頭を低くする必要があるのです。
養父の場合いわゆる武士の商法でした。
よくケンカしてました。
やっと来てくれた運転手や助手とも。
どれだけの人が出入りしたことか。


収益のことを考えて、養父は夜間長距離輸送に踏み切りました。
地方と大阪間の物資輸送です。
今も夜大型のトラックが人の寝ている時間走っていますが、
その60年前は、今のように設備の整ったトラックではありません。
運転手も雇い主も日々戦いの連続でした。
小さな運送会社に来てくれる人は、よほど困った人間か世の中から外れた人間か、
農業や漁業の空いている時に来てくれるかの人たちで、
年中人探しの状態でした。


私が13歳から23歳で家を出るまでの10年間で、
普段はおめにかかれないような人たちが集まってきました。
その日から仕事にありつけるからです。
我が家はまるで人間のるつぼのような感じでした。
その当時のことを今では私にはよい勉強期間であったと懐かしささえ感じます。
まるで小説の中でしかお目にかかれないような出来事が次から次へと・・・
運転手、またトラックの助手の仕事をしてくれた人たちは様々でした。
一人一人の物語を思い出すと小さな小説が書けるほどに、
豊かなものですが、書ききれません。
私は10代の多感な、一番難しい年代に、
別の次元から来たような人たちを見る機会が与えられたようです。


世の中の矛盾が噴き出し、その問題のたまり場に人間が集まったような。・・
おそらくは聖書に出てくる、イエスを取り巻いた人々とも共通する小さきものたち、
迷える子羊のようなものであったかもしれません。
またドストエフスキーの世界に出てくる人たちとも共通するような・・
実の父の元では決して体験できない、人生のある一時期でした。
でも、私は知っています。
根が純真な人が多かった。
荒々しい人もいるけれど、
これほどの善人はいないというような、そんな人も・・


***********

いくつかのエピソードを思い出しつつ書き留めていきます。

「従業員人間模様」

深夜長距離輸送は60年前は運転手にとって過酷なものでした。
時間厳守で荷物を届けなければならないのです。
送り出す方も必死です。
間に合わなかったらもう仕事はこなくなるかもしれません。
運転手たちの多くは胃痛をかかえていました。
そして眠気と疲労と慰めのためについつい酒に手を伸ばし、
大事故へつながることも多々ありました。
飲酒運転は今も昔も処罰対象です。
信頼していた運転手が夜出発して、朝遺体となって帰ってきたこともあります。
それはどうしてだったか忘れました。


また妻のある口軽助手(それが災いしてか)が、
子供も生まれようとしているのに、朝死体となって帰ってきました。
他所の車とトラブルになって、殺されたとのうわさでした。
彼の妻は他県の人でしたが、大きなお腹をかかえて帰っていきました。
今もあの状況を思い出します。
本当にドストエフスキーの世界です。
ただ高学歴のニヒリストは1、2名を除いてはいませんでした。


またよ
く働く若者が来てくれて、とても助かっていました。
けれどかれはときどき定期的に休むのです。
そのうちその理由がわかりました。
刑務所に入って保釈され、ときどき近況報告をする義務があったのです。
ところが黙って来なくなってしまいました。
そのうち、様子がわかりました。
また何かコソ泥して捕まったというのです。
もう習慣化しているとしかいえません。
気がきいて、よく働く若者だったので、養父も残念がっていました。


ある日、得体の知れない
がっしりした大きな男が働きたいといってきました。
何か背景に普通ではない気配がありましたが、頑丈そうだし、
人手はほしいので雇いましたが、
さすがに養父は見抜いていたのか注意はしていました。
しばらくは何事もなく働きましたが、他の従業員のこそこそ話に、
彼は重大な事件を起こし、どうも入っていたみたいということでした。
その男、夜中に「金を貸せ。今からいくから」と電話か何かあり、
養父はさすがにどうしようかと考えたようでした。


養母と私と犬を二階に部屋に行かせ、階段の上り場にバリケードを築き、
ガラスを割って階段を上がってきたら、闘うつもりだったようです。
あるいは日本刀でやってしまったかもしれません。
男は酒を飲みながらやってきて階下のガラス戸をガタガタさせていましたが、
やがて引き返したようです。
あのときは、どうなるかと息をころしていました。
愛犬だけが忠実に吠えていました。
このような生活が珍しいことではなく、度々繰り返されたのです。


私は強くなりました。強いというより、冷めた人間になりました。
この世の生活に対して、希望どころか冷めていきました。
私にとって読書の世界が現実であり、
他は見ても、無感動な非現実世界のような感覚になっていきました。
トルストイとドストエフスキーの世界にのめりこみ、
特にトルストイのキリスト教に憧れを抱きはじめました。



2017年7月5日

2017年6月27日 (火)

父(養父)の思い出1

父の日はどうして決まったのかわかりませんが、
やはり店の売り場に「父の日」と書かれていると
懐かしい顔が思い出されてきます。
私は父というとき、
どうしても実父と養父を区別して話さないわけにはいきません。


稀な環境で育ったので、説明しなければ人にはわからないのです。
実父と養父(私の家)とはバスで20分、
車で10分余で行ける距離に住んでいました。
実の父は私の家に時々来ました。
養父はその度に固くなっていました。
私も2~3か月ごとに姉や実父に会いに本家に行っていました。
(行かされました)それが親同志間での暗黙の了解であり、
特に養父が果たさなければならない義務のようになっていました。


実の父だと知りながら、私は何も知らないのだという顔をし続けた私。
すべてを知りながら一切顔には出さず、心に秘めたまま。
夫にも私の子供たちにも何も語らなかった私。
それだけ触れてはならない秘密として、
また私自身決して許されないことだとして・・・・
けれども養父母の前以外では、
私は○○さんの子供であるいうことで通っていました。
学校の先生たちも実父の名前を知っていたし、
校長さん達は実父の友人でもあったので、
養母は担任の先生に話していたのでした。(養父に内緒で)
ある先生は私を旧姓で読んでいました。


実父と養父はすべてが真逆でした。
育ちも教養も人格も・・そして背が高いのと低いのと、
しかし両親とも頭脳は抜群。
養父は家の貧しさのため旧制中学に入れる頭を持ちながら
あきらめ軍隊にはいりました。
それこそ実力によって戦傷で
一戦を退くまでには准尉になっていました。


実父と養父の違いはここには書きません。
ただ養母である叔母は
「私は士族の出です」と言い続けた気位の高い人であり、
「そんなことはない」と兄である実父は否定しながら、
我家は南北朝の頃に落ち延びてきた
由緒ある一族の家系に連なるものというほど、
まあ家系にこだわりを持っていた人です。
個人よりもお家大事の人でした。・・(真偽は調べなければ)


戦後教育を受けた私にはどうでもいいこと、
見下げられている養父が可哀そうだと思ったことたびたび・・・
といいながらも、気位の高さだけは遺伝子として受け継いだ馬鹿な私・・・
そんな養父が唯一誰にも負けないと自負していたのが、体力でした。
しかし頭は実に切れる人でした。
養父の身内はみな一流大学を出ているから、
よくできる血筋であろうと思います。
養父は悔しかったのでしょう。
学校の先生が親に養父を中学(旧制)に行かせるようにと頼みに来たそうです。
この話は何度も何度も言いました。
あの頭脳では許されていたら、最高学府にも行けたと誰もが認めました。
けれどもそのような工面はできず(小作人)、
長男である養父は軍隊に入ったのです。
あの当時、中学はかなりのお金が必要でした。


実父は地主、養父は小作人の家(養父の関係した地主は実父とは無関係)・・
戦後は逆転しました。
米国によって農地解放が行われ、
苦労の連続であった小作の方々の多くは土地持ちになりました。
私は両方の世界を見て大きくなりました。複雑です。


*******

養父の逸話というか武勇伝は思い出してもかなりあります。
そのいくつかを書いて、父の日の印としましょう。
私は養父と一緒に出掛けることは嫌いでしたが、
養父は私をどこへでも連れていきたがりました。
何か起こるというより、養父が何かを起こすのです。
感情のコントロールが難しいのです。


ある日、町をあげてイベントがあり、
私は養父と2人で道路わきで見ていましたが、
巡査の対応が養父の気にいらなかったと見えて、
巡査に食ってかかりました。
手をあげかけたかどうかは覚えていませんが、
もうすぐ逮捕されそうでした。
私は大声をあげてやめてと叫び、半泣きだった思います。
巡査さんは、許してくれましたけれど。


またある日、養父は口から血を出して家に帰りました。
歯は折れているようです。
歩いていると男が女を殴っているので、女の人を助けようとしたら、
男に殴られたらしいのです。
あとで聞くとそれは夫婦喧嘩のようでした。
まあ、夫婦喧嘩も危ないことになりますけれど。


ある秋、町内会の運動会。
走り競争がありました。
100メートルでしたか。やはり私も行っていました。
若い人たちが沢山でている競争です。
養父は急に「出る」といいました。
父は傷痍軍人です。片方の足は短いのです。
私は必死に止めました。
養父は46歳くらいです。・・・言い出したら聞きません。
走りました。
昔、誰よりも早く走った記憶が蘇ったのでしょう。・・走りました。
・・・そして一番になりました。
若者よりも健常者よりも早く・・・
それにしても若い時はどれほどのものだったかは恐ろしいほどです。


養父は私が中学一年の時リストラされました。
農協が事業縮小したのです。
そして小さな運送業を始めました。
荒々しい運転手たち相手の仕事です。
おだやかな性格もあれば、問題ある性格もあります。
ある日、肩を怒らせて。給料の前借をしようとやってきました。
養父は彼が自分の机まで男が来る距離を素早く計算し、
自分の机までこさせ、柔道のように囲い込み、片手をすばやくとり、
男の手の平をそろばんで恐ろしい力で打ちました。
彼は逃げていきました。
私はどうなることかとはらはらでしたが、
それは養父が戦場で鍛えた戦いのやり方でした。一瞬でした。


またある日。3人のやくざ風の男が来ました。
運送業に事故はつきもの。
うちの運転手が起こした人身身事故の当事者が彼らを雇って、
ゆすりにきたのです。
養父はそれも一瞬で判断しました。
肩をゆすりながら、あの独特の歩き方で威嚇しながらやってきました。
養父がやった戦術。
「いくら貰ってきたんだ。貰った金額よりこっちが多く出そう」ともちかけたら、
承諾して早々に立ち去りました。
これも戦いの一つです。


あるとき、得意先の人と仕事のことで、
和気あいあいと我が家に招いて食事中・・
何か養父の機嫌を損ねるようなことをお客が言ったのか
急に怒り出した養父・・
お客も怒り出し、とうとう取っ組み合いの喧嘩・・
当然のことですが得意先を失いました。


思い出して書いていたら、次々と蘇ってきました。
養父が勤め人をやめてからの我が家は戦場のようなもの。
テレビドラマでは昔、ちゃぶ台を囲んで、
家族がなかよく食事をする懐かしい話が出ますが、
あんな光景は見たことはありません。
私の周囲にもあんなことはありませんでした。
けれども家が戦いの場所のようなことはなかったでしょう。


自動車事故、故障、従業員の問題様々な出来事が夜昼区別なく起こり、
その度に処理しなければならない養父母、
お嬢様育ちの養母にとって、つらかったと思います。
だから、愚痴かわりに過度なほど、出自の誇りを言い続けたのでしょう。
毎日何が起こるかわからない、戦いの日々でした。
続きはまた書きます。



2017年6月27日

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