2018年8月28日 (火)

有難うございました

「わたしの小さな歩み」をお読みくださってありがとうございました。
過去の思い出を書くということよりも、
現在進行形の、私の日々のそれこそ小さな歩みを書いてきたのですが、
わたしの歩みの中で一つでも参考になれば嬉しいですが、
不必要なものは忘れてください。


私の残りの人生は過ぎ去った年月に較べれば、僅かしか残っておりません。
その残りの年数の中に身体の不調や、周辺の変化が起こってきます。
人生の最後の総仕上げということが待っています。
誰にでも襲う病気や、嫌ですけれど認知症など。
不慮の出来事が起こってくるのはこれからです。
その残されたまだ健全な数年の間
私はヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックの真髄を学び、
天国へのおみやげにしたいと思います。


このカトリックこそ、わたしにとって正当なるキリスト教である、
2000年来継承されてきた、純なる教えであると信じるからです。
それから聖アウグスティヌスも、学びたいと思います。
力のある限り、学び、理解し、
わたしの生は素晴らしかったと心から感謝して、
この地上生活を終えようと思います。


共に学び、共に信ずる夫とともに、死の日は別でも、
今生と同じように天にても共にあることを祈りながら・・・
この数年間、ありがとうございました。
読んでくださった方の神の祝福を祈ります。
御一人、御一人が実り豊かな生をお送りください。・・・・・・感謝


******

本について 
私の人生は本と共にです。
もの心ついたときから、本を読み始め、
だいたい月に3冊から4冊を読んできました。
74歳の今で、どれくらいの本の数になるでしょうか。
 けれども、最終的に大切な本は数冊程度になりました。
 聖書、ヒルデガルト、岩下壮一師のカトリックの本です。
ヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックが2000年来継承されてきた、
キリスト教の真実の教えのように私には思われます。
そして、それで十分です。


2018年8月28日

聖アウグスティヌスの記念日に

 

2018年8月20日 (月)

聖母被昇天祭

8月15日は、聖母被昇天であり、カトリックの三大祭日の一つです。
復活祭、聖母被昇天祭、クリスマスと三つです。
このうち、聖母被昇天祭は、マリアを讃える日です。
無原罪のマリアが魂とともに
肉体もそのまま天にあげられたという信仰に基ずくお祝いです。
 今日この頃、マリアさまという方がとても大切な意味をもっている
ということが神学的な意味においてわかってきました。
そのことは、いつの日か書くことにしまして・・


 いつも夫と二人で出かけるのですが、
まだ今一つマリア様の意味が
理解しかねる夫は家にいるということで私一人教会にでかけました。
 いつものミサ時間に行ったのですが
何とすでに始まっていて聖堂の中にも入れず、
補助席の一番最後でした。
すでに350人―400人ほどの人が集まり、ミサが始まっていて、
40分も過ぎていて、辛うじて聖体拝領に間に合った感じです。


日本人と外国人の合同ミサで、日本語、英語、スペイン語、
インドネシア語で行われ、賛美のダンスも交えて・・ 
最後尾の席にいるのでよくわからないのですが、
アーチ型のバラの飾りの中に美しいマリア像がおかれ、
何とも美しいお顔で微笑んでおられます。
ローソクもマリアさまに相応しくやさしい感じでまたたいています。


すべてのミサの祭儀が終わり、バラのアーチのマリアさまは、
神父と侍者に支えられて聖堂から出てきました。
一番後ろにいたので、今度はマリアさまの行列の前につくことができ、
この小さな聖なる行列な3階から階段をゆっくり降りて、
建物の玄関の広場まで出ていきました。
私は初めてなので、最後までついていきました。


外に出てマリア賛歌を歌い、写真をとったりしながら、
今度はまた上にあがっていきました。
この聖母被昇天祭の行事は
フランスやスペインでは大掛かりなものです。
国民的な祭りになっています。


 私の教会での行列はそのミニ版ですが、内容はおなじこと。
 その後は、御祝いの飲食です。
南米やフィリピン等のお菓子や軽食、飲み物、
また無料カレー等、音楽とともに、
日本人、外国人区別なく共に賑やかに、和やかに・・
主は一つ、我らも一つ

2018年8月20日

 

2018年8月11日 (土)

本、言葉の紹介 闇をてらす足おと

「闇をてらす足おと」・・・
この表題は暗い道かあるいは闇のような場所に
コツコツと足音が聞こえ、その足音の主から光が照らされている・・
というようなイメージがわいてきます。


暗い闇、これは心の闇でもあり、現実の暗闇であるかもしれません。
その暗闇を照らす足音は、
暗い病室の長い廊下を不自由な足で見舞われる岩下神父の足音であり、
その足音は患者さんの心を照らす光だったのでしょう。


この本をお書きになったのは、芥川賞作家 重兼芳子氏です。
1986年に発行された本です。
「闇をてらす足おと」岩下壮一と神山復生病院物語・・・春秋社


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私は岩下壮一師の生き方(信仰、生活等)に深く惹かれました。
日本人で一人の人にこんなに引き付けられ、
探求しようと思ったことはありません。
愛と知性(理性)を同時に全うされた稀有なる方のように思えます。
人間はどちらかに偏って、
中庸ということから外れることが多くみられるからです。
そして、この「闇をてらす足おと」に会い、一気に読み終わりました。


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「重兼さんが岩下神父のことを知ったのは、
昭和万葉集に4首ほど掲載された
ハンセン病患者の歌人がいるということを聞き、
神山復生病院へ取材に行かれたそうです。
その方はすでに病気は治癒していたが、眼は見えず、
四肢は麻痺し、唇も麻痺していて、残る舌と歯を巧みに操作し、
音楽を聴いたり、小説の朗読を聞いて、静かな日々を送っておられた。
たまたま、その方の愛読書が重兼さんの「ワルツ」であった。
小説を通してその方は重兼さんに信頼をおき、
せきをきったように45年前に亡くなった岩下神父のことを語りだした。


重兼さんはひたすら神父の面影を追うその方を凝視し、
一人の人間の中に45年間も生き続け、
苛酷な肉体的条件と闘う支えになっている
岩下神父とはいかなる人かと調べはじめた。
神父は100年に一度でるか出ないかの碩学であり、
並みはずれた頭脳に学問と知識が堆積されていた。


驚いた重兼さん、
「見ず知らずの私があなたを追いかけてもよいのでしょうか。
ハンセン病のこともカトリックのことも、
なにも知らない私があなたのことを書いても許してくださいますか」・・・
私は書くことをやめようとしたが、結局自然に書かされてしまったそうです。
差別と迫害の歴史を背負った生き証人が
私にペンを握らせたというべきだと書かれています。


その方(元患者)は
「これで、わたしの長い話は終わります。
何日も何日も拙い話を聞くために、よく通ってきてくれました。・・・
えっ、わたしの今の心境をお聞きになるのですか。
イエズスさまがどのようなお方なのか、いまだ分かりませんが、
岩下神父が亡くなった直後の顔が鮮やかに思い出されます。
頬がこけて、ひげが伸びて、
深い考えの中に沈んでいるような顔でした。
あの顔がわたしの肩のところに飛びこんできて、
45年間も離れないのです。


今ではあの顔がイエズスさまなのか岩下神父なのか、
重なり合ってしまいました。
それどころか、無惨で醜いはずのわたしの顔までが合体して、
透明でかたちがなく、生命体のような気さえしてくるのです。
「闇をてらす足おと」243ページより

2018年8月11日

2018年8月 2日 (木)

本、言葉の紹介 岩下壮一師

澤田昭夫教授の「見えないものを大切に」という本の中に、
尊敬すべき人として岩下壮一師のことが書かれていて
早速ウキペディアやその他で調べてみて、
ただただ、驚きと賛嘆とそして感謝でした。
このような方が日本にかつていたのかと、信じられない思いでした。
ヨーロッパの哲人とも方を並べられる方
、いやそれ以上の方ではないかと日本人として誇りたい気持ちになります。


今、西洋の一番の賢女といわれるヒルデガルトの本の英文を
翻訳機の力を借りながら読んでいます。
そしてその教えを真実であると思います。
その教えを私は基軸として
(なぜなら、ヒルデガルトはこれは神からの啓示であるとしている)
あらゆる思想に照らしています。
それはなかなか一致したり、調和したりすることはあまりないのですが、
岩下壮一司祭の書物、
特にカトリックの教えは本当によく似ています。


岩下神父の経歴はあまりにもすごくて、簡単にはまとめられません。
英語、仏語、ラテン語は日本語なみ、
そしてヘブル語、ギリシャ語、そしてドイツ語も。
生まれられた家庭も飛びぬけて、頭脳も秀才を飛び越えて、
そして何よりもカトリックの深い信仰、
それに基づく功徳の生活。
知識と愛の両立を全うされた方。


今、私はヒルデガルトの教えと共に、
岩下壮一師の全著作を買いそろえ、夫とともに勉強中です。
何しろ今度は日本語です。
こんなに素晴らしい書物の数々、これ以上の幸福はありません。
これは何とかして今一度多くの人が読めるように
という願いがふつふつと沸いてきました。
夫はヒルデガルトの本の訳文を出したいと
毎日何時間も翻訳に励んでいます。


そしてもう一人の偉大なる魂の持ち主、
岩下壮一師の著作も
今一度全巻復活すべきだと思いを募らせています。
カトリック教徒を問わず、
現代人の生きる指針となることまちがいありません。
すでに、岩下壮一師の著述は下記のように立派な本が出ています。


「カトリックの信仰」 講談社学術文庫、筑摩書房
「信仰の遺産」 岩波文庫 
「人間の分際」小坂井 澄 聖母文庫

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・・・現代人は物事の裏側を見たがり、
どんなに光輝を放つ対象でも
一応は疑いぶかくその裏面をのぞかずにはおられぬようだ。
かれらの詮索眼によって、時には偉大と称する人物も、
その醜悪面をあばかれ、
人々の失望と嘲笑をかう場合もないわけではない。
そしてそのような性癖が昂じた結果
あまりに世俗の「事実」を知りすぎた人々は、
容易に「真実」を信じようとしないのである。


他人に対する不信、社会に対する不信、
さらには神に対する不信仰も、
実はこんなところにきざしているともいえそうである。
しかし岩下師のような人物こそは、
どれほどに意地の悪い現代人の詮索にも、
決して裏面の汚点をさらすものではない。


師の高度な知的活動の裏には、
口さきだけの利己的な知識人の非行動性は見られなかった。
そこにはただライ者への絶え間ない奉仕があるだけだった。
またこのライ者の友としての愛の活動の裏には、
偽善的な自己顕示の影はみじんも見られなかった。
そこにはただ日本の思想界に
カトリシズムの市民権を得させるための研学の熱誠があるだけだった。


そしてこの師の両面の活動の中軸となったものは、
常にキリスト教の信仰であった。
実に師にあっては、考えることと信ずることと行うこととは、
常に一つであった。
なぜならば、師が思索し、信仰し、行動することは、
すべてただ一つの目標、すなわちキリストを愛し、
人を愛すということ以外にはなかったからである。

  岩下壮一一巻選集  

「知と愛と信仰」ドイツ文学者、上智大学教授 増田和宣(故)より 抜粋



2018年8月2日

2018年7月24日 (火)

司教叙階式ミサー大阪カテドラル聖マリア大聖堂

https://www.youtube.com/watch?v=NJZj6Ke1Id4

大阪カテドラル聖マリア大聖堂での叙階式ミサです
30分ぐらいしてからミサが行われます。
よろしかったらご覧ください。

この夏の温度は、かつてないような異常さです。
この前の大阪北部の地震、それから豪雨の被害が起こり、
その後のこの温度の上昇。
何か地球が怒っているような、気配さえ感じます。


この日(16日)も高い温度の予想でした。
でも司教叙階の典礼ミサに与りたくて、夫と朝7時半に家をでました。
式は11時からですが、9時には開場なのです。
暑さにどれだけ耐えられるか、準備はしていったつもりですが。
 2500人の参加の予想で、敷地内には400人ほど入れるテントも張られ、
すでに聖堂内の開場を待つ人たちでいっぱいでした。
様々な修道院から来ているシスターの服は、
シスターたちにとっては修行服でしょうが、
何か華やかな、いつもと違う雰囲気を与えていました。
黒、白、グレー、エンジ、色も形も様々です。


9時聖堂内へ・・・これからミサが始まるまで2時間もあるのです。
どういう理由かわかりませんが、
1000名以上は入れるステンドグラスの聖堂の窓ガラスは
一枚残らず閉められ、外気は入らない状態で、
クーラーは昔の建築なので無し。
大きな扇風機が隅に何台も置かれていましたが、
外気の入らない密封状態で1500人近い人の息、・・


体がもつかなと思いつつ、
けれど、地下には冷房の行き届いた大ホールがあったので、
そこでスクリーンで式を見る人たちも多くいました。
要するに、自分の体調に合わせて、
場所は選んでくださいということです。


ここは、かつての細川屋敷のあったところで、
ガラシャ夫人が火を放って最期を迎えた屋敷跡です。
大阪城は目の前です。
あの頃は、屋敷から大阪城が威圧的な形で見えたことでしょう。
聖堂の正面には日本式のマリアさまの絵と下の方の両側に
高山右近とガラシャの祈る姿が描かれた巨大な絵があります。
とても美しいです。
聖堂一杯に輝くステンドグラス、そして荘厳なパイプオルガンの音。
やはり、ミサはスクリーンでなく、実際に見たかったので、
暑さに何とか耐えながら、2時間半、参加できました。


伝統的なカトリックの叙階式ミサ。
私にとって初めての経験です。
やはり長い歴史に裏付けられた、
美しい所作を伴った祭儀だなと思いました。
前田万葉枢機卿のおはなし、司教補佐の任命、
200人近い司祭たちの姿、
そして100人以上のシスター、2000人ほどの一般信者。
壮観でした。


集まった人たちの祈りと歌、やはり心打たれます。
ヴァチカンからは、教皇大使がおいでになり、
ラテン語での任命のことばを宣言されました。
気温がもっと低ければ、気持ちが集中したかもしれません。
人に迷惑かけないように、
自分の身体を保つことに精神が集中して、ちょっと残念です。


司祭もシスターも正装でしたが、ごく普通のご様子で、
きっと暑さも寒さも訓練で、耐えられるようになっているのでしょう。
心構えがちがっている。
また普通の信徒も私よりもずっと年取ったような人も感極まったようすで、
超越しているような感じで、
新入りカトリックの私はまだまだ出来損ないだなと思ったことです。


とにかく慌てない、落ち着いている、礼儀正しい、文句いわない・・
カトリックの教育って、素晴らしい。
私も小さな子供のときから、こんな教育を受けていたら、
もう少しよくなっていたかも・・
 ミサが終わって席立って帰ろうとしたとき、隣の方が
「どうもありがとうございました。おかげで涼しかったです。」と言われて、
私はキョトン。

お礼の理由は、私が暑さを凌ごうと扇子でパタパタとやっていて、
その風が隣のご婦人にもいったということです。
ニコニコしながらの優しいお礼の言葉に
私は何と言っていいかまごまご。
やはり違いますね。


カトリックが体ごとなじんでいる方は。
私はまだまだ、というよりとんと修行が足りないです。
あのふんわりとした雰囲気はどうしたら出るのでしょうか。
良い経験でした。
帰り道路上の温度は39度になっていました。無事に帰りました。

2018年7月24日

2018年7月15日 (日)

本、言葉の紹介 平和

ミサの中で、信者の間で必ずこの挨拶が行われます。
「主の平和」です。
カトリックに入りたての頃、これにはとまどいました。
皆さま、手を合わせて、両隣、前後の方々、
また周囲の方々に「主の平和」といって、会釈するのです。


この習慣にもきっと深い伝統的な意味があるのでしょう。
「キリストの平和があなたがたの中にありますように」という意味だと思って、
今は先ず私の内部にそして皆様の心の中に、
キリストの平和がありますようにと周囲の人に挨拶します。
皆さま、優しい微笑みを返してくださいます。
素晴らしい伝統だと思います。


夏は、特に日本の平和について考えさせられることが多いです。
沢田教授の著書の中の「平和」は、私の思いをすっきりさせてくれました。
縦の意味と横の意味、まるで十字架のようですが、
理性と信仰をもって理解することが大切であると自分に言い聞かせています。


澤田昭夫著「見えないものを大切に」より、

「平和」

 使徒パウロが小アジアのガラテアに宛てた手紙に、
「平和は霊の実り」だとあります。
霊によって生きる人には、神から愛と平和が与えられるというのです。
キリスト自身、最後の晩餐の席で、「私があなたたちの平和を与える。
ただし、それはこの世が与えるような平和ではない」と申されました。


愛も平和も神の賜物、霊の実りだというのです。
しかし、「平和を生み出す人は幸いだ」ともあります。
つまり、平和は神の賜物であると同時に人間の業でもあります。
 ところで、人間はどうして平和を生み出せるでしょうか。


 第一次世界大戦に一時流行ったのは、
権力政治や国家利益を忘れれば平和が到来するという考えでした。
権力や武力はそれ自体が悪だから、軍縮を進めよう。
国家利益を越えた人類社会組織を作り、
国際紛争はそこでの話し合いで解決しよう。
そうすれば、平和な新社会秩序が生まれるという考えでした。


しかし、その考えは失敗し、第二次世界大戦が起こりました。
強制力、武力がないと、
どんな世界秩序も維持できないことが立証されました。
権力、武力はそれ自体が目的にされると、
社会の破滅を招きます。
しかし、強制力無しの社会は混乱、混沌を招きます。


 英国の歴史家、軍事史家のマイケル・ハワードは、
国際問題の解決には水平と垂直の二つの次元が必要だと言います。
水平の次元とは権力、武力に関わる世俗政治の次元で、
これなしにはどんなに立派な人道的、倫理的政策も、
無責任な作文に終わる。
垂直の次元とは人権、人類愛、信義、法の支配など、
倫理的価値の次元で、
これがないと権力、武力が自己目的になる危険がある、というのです。


この倫理的次元をさらに宗教的に深めるのは、
他人のために命を捧げるほど大きな愛はないというキリストの教えや、
初めに申した、平和は霊の実り、という考えだと言えましょう。


「見えないものを大切に」澤田昭夫著より


2018年7月15日

2018年7月 7日 (土)

本、言葉の紹介 「人生の秋に」

春秋社発行 「人生の秋に」ヘルマン・ホイヴェルス神父

カトリックの祈祷書「祈りの友」を読んでいたら、巻末の方に、
「最上のわざ―熟年者の祈り」とあり、
ホイヴェルス神父の「人生の秋に」からの美しい詩が載っていました。
「この祈りの友」は、洗礼の記念に神父から頂いた)
・・下記にあります・・


2014年から始まったカトリック入門講座に
一人の80代と思われる学者風の方が熱心に来られ、
必ず神父さまの身近に席をとっておいででした。
誰とも話はなさらず、勉強の後は難しい質問を神父になさり、
他の人たちはまたかという顔で、その方から離れていました。
どうしても隣に座らざるを得なくなって、
私たち夫婦はその方に話しかけました。
大阪大学の名誉教授でした。
シェイクスピアの大家でした。


元教授と毎週講座の終わったあと、
駅までの10分ほどの道を話しながら帰りました。
教授は洗礼志願者申し込みが近づくときこんなことを言われました。
「実は私は研究のために、ここへは偵察に来たのだよ。
でも、いつの間にミイラ取りがミイラになったように、
受洗したいと思うようになった。
カトリックに入りたいと思って家族に言ったら、大騒動になって・・・」と。


悲しそうでした。
特に奥様の強い反対で。
先生は心臓も悪く、歩くのもゆっくり、ゆっくりでした。
私も文学のこと、特に西洋文学の話ができてとても嬉しかったのです。
その後、私たち夫婦は別の教会に移りました。
(カトリックは自由に移動できる)


先生から、一冊の本が送られてきました。
「一冊あまっていたので、送ります。
お話をした時間、私にとって至福の時でした」
・・あまっていたにしてはよく読まれた本のようでした。
愛読書だったのです。
そして、ホイヴェルス神父の詩がありました。
S先生の心境そのままであり、
私のこれからを指し示す、輝石のような言葉でした。


********

最上のわざ―熟年者の祈り
 ホイヴェルス神父 人生の秋に


この世の最上のわざは何?
楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静におのれの十字架をになう―。


若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、
人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役たたずとも、
親切で柔和であること―
老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。
まことのふるさとへ行くために―


おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、
真にえらい仕事――。
こうして何もできなくなれば、
それを謙遜に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。
それは祈りだ―。
手は何もできない。
けれども最後まで合掌できる。


愛するすべての人のうえに
神の恵みを求めるために――。
すべてをなし終えたら、
臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。



2018年7月7日

2018年6月28日 (木)

本、言葉の紹介 聖母文庫の紹介

https://bookmeter.com/books/337228

アウシュビッツの聖者コルベ神父の
本の感想です
聖母文庫の本はアマゾンで検索すると
沢山出てきます。

1930年4月24日、
長崎に上陸したマキシミリアノ・コルベ神父は、
ただちに早坂久之助助司教を訪ね、
出版物によるキリスト教宣教の許可を願いました。


長崎到着の一か月後、
月刊「無原罪の聖母の騎士」1万部を出したのが、
コルベ神父の日本での出版宣教のスタートでした。
それから約6年間、コルベ神父は昼夜をわかたず、
「聖母の騎士」の出版に心血を注ぎました。
難解な日本語の活字を一本一本苦労して拾い、印刷しました。
コルベ神父のモットーは、一冊でも多くの「聖母の騎士」を出すことでした。
そのため、質素な生活に甘んじ、全精力を出版活動に傾けたのです。
・・・・聖母文庫発刊にあたってより


それから88年、聖母文庫として、
今もなお、良質な正統派の書物を、
廉価な持ち運びやすい形として提供されています。


*アマゾン等で聖母文庫を探されると、
かなりの量と種類の本が出てきます。
ご自分にあった願い通りの本が手に入るかもしれません。
今、私が読んでいる本の中にも、数冊の聖母文庫があります。



「コルベ神父のその後」
 日本の長崎に来て6年後、
神父はポーランドに帰らなければならなくなりました。
ポーランドで大規模な活動をしていましたが、
第二次世界大戦が始まり、ナチスに逮捕されました。
その地獄の収容所(アウシュビッツ)で、一人の仲間が脱獄し、
すべての囚人は炎天下に一日中直立不動の姿勢をとらされ、
その中で10人が餓死刑を受けることになりました。


10人が選び出されました。
選ばれなかったものはほっとしたのです。
10人のうちの一人が、泣き悲しんでいました。
 そのとき、「お願いします。私は彼の代わりになりたいのです」と申し出たのが、
コルベ神父でした。
コルベ神父の申し入れは聞かれ、地下牢に素っ裸で入れられました。
 そして、地下牢からは救いを求める叫びや呪いではなく、
静かな祈りのささやきでした。


ナチスの兵にとって、
コルベ神父の目に輝く平和と静けさは、耐えられないものでした。
14日後、生き残っていたのは、4人で、
意識のはっきりしていたのはコルベ神父一人でした。
4人は毒物の注射で殺されることになり、
コルベ神父は自分の腕を自ら差し出し注射を受けました。
後ナチスに強いられて手伝った囚人の一人が
「私が入ってみると、顔は輝き、目は天を見つめたままで壁によりかかり、
コルベ神父は死んでいました。その姿は高潔そのものでした」
と語っています。


 神父はカトリックで、聖人とされましたが、
これは「奇跡」といわれています。
神父は47歳でした。
1941年の夏、天国に召されました。 
このコルベ神父の詳しい話も聖母文庫に何冊かあります。
「アウシュビッツの聖者コルベ神父」、「ながさきのコルベ神父」 


キリスト教に触れたい方、生きる指針として読んでみたい方、
そして信仰を深めていきたい方、
聖母文庫の何れかの本が心に喜びを与えることと思います。

2018年6月28日

2018年6月19日 (火)

本、言葉の紹介3 見えないものを大切に

「見えないものを大切に」の紹介です。


澤田昭夫著 聖母の騎士社出版 337ページ
澤田昭夫教授 1928年10月5日―2015年3月24日
 歴史学者、筑波大学名誉教授、近世英国史・ヨーロッパ史、
トマス・モアの研究、カトリック教徒


・父は沢田節蔵:外交官(元国際連盟日本代表・ブラジル大使)、
 東京外国語大学初代学長
・夫人は沢田マルガレータ:元愛知大学・タカチホ商科大学教授、
 ケルン大学経済学博士
・叔父は沢田廉三:外交官(外務次官を2度務め、初代国連大使)
・叔母は沢田美喜:エリザベス・サンダーホーム創設者、
 男爵岩崎久弥の長女
・実兄は沢田和夫:カトリック東京教区司祭
・実弟は沢田寿夫:パリの国際仲裁裁判所副所長 2016年死去


●1987年来、
「心のともしび」運動のラジオ番組「太陽のほほえみ」のために、
毎月書いてこられた14年分の原稿を、
聖母の騎士社が文庫本として出版したものです。
 簡潔にしかも内容深くまとめられた文章は、
信仰、仕事、罪、平和、落胆、孤独、平等、心の財産、聖母マリア、
苦しみ、個人主義と利己主義、心の平安、常識、復活、癒し、
わがまま、勤労、負けて勝つ・・・など素晴らしい言葉の数々ですが、
その中で、「死を考える」を紹介させていただきます。


「死を考える」 

人は生きるためにある存在です。
ですから人間が死を嫌い、死にたくないと思うのも当然です。
しかし、死ほど確かなものは世の中にありません。
いつ来るかは分からないが、必ずやって来ます。
ですから死とは何か、人は死後どうなるかについて
知れるものなら知っておくほうが、
死に対して目をつぶって知らぬふりをするよりも大人らしい態度でしょう。


 ところで、死後の世界について語ってくれるのは、
死んでから復活した人以外にはあり得ません。
大病して「死後の世界を垣間見た」などという
センセーショナルな体験を書く人がいますが、
その人もほんとうは死んではいないのですから、
死の体験談にはなりません。


死んで復活した人はふつうの人間には誰ひとりいないのです。
ですから、私たちは死後の世界について、
ふつうには知りようがないのです。
 死んでから復活した人間はひとりいます。
ただしふつうの人間ではなく、人間であると同時に神である人、
すなわちキリストです。


そのキリストは、神の教えを信じ、
その掟を守るなら人は死んでも復活し、
永遠の生命に恵まれると約束なさいました。
  永遠とは長い時間のことではありません。
時間は過ぎ去るもの、はかなさのしるしです。
永遠とは時間のない状態、時間を越えて、
くち去ることのない状態です。


死ぬとは、その永遠の生命の世界に
新しい「霊の体」をもって生まれ変わることです。
現世での命日は、新しい世界への誕生日です。
しかしそうなるための条件は神の掟を守ることです。


 その掟の最大なるものは、
現世で神を大切にし他人を自分と同様に大切にすることです。
 「よく生きることがよく死ぬこと」という格言のさとす通りです。


*6月18日 大阪で地震発生しました。
私の住む豊中はその一番強い直撃を受けました。
揺れ動く瞬間、まずどこに自分の体を置けばいいか考えました。
テーブルの下、電気の傘のないところとか考えているうちに揺れは収まりました。
急いで玄関の戸を開けました。
私には死の迫った地震だとは思えませんでしたので、
まだ私には生命が続くようです。感謝しました。
幸い物は少々倒れましたが、阪神の震災のときほどの被害もなく、
私は守られましたが、大変なことになった人たちも多くおられます。

勇気と慰めが与えられますように。

2018年6月19日

2018年6月 9日 (土)

本、言葉の紹介 「カトリックの終末論」

今日のご紹介は、「カトリックの終末論」です。

里脇浅次郎著、聖母の騎士社(聖母文庫)発行 )P143
*アマゾンで入手できます。


自分の死後のことを何ら考えることなく、この世を謳歌し、
そうでなくても生きるのに精いっぱいで
そんなわけのわからないこと考えたくないと言う人も多いでしょう。
死は誰にでも来るけれど、考えたくないというのが普通かもしれません。
 わたしのように小さいときから、死を身近に考えていたものからは、
とても不思議ですが。


 この本に書かれていることは、
ヒルデガルトの終末とほぼ同じようなものです。
彼女は、その天界の有様を「見た。聞いた。」として書き、
細密画を多く残しています。
典礼や歌、細かいことは時代の流れで異なっていますが、
核心は同じです。


本書まえがきより、
P1~「何事をなすにも人生の終わりを思え、そうすれば罪を犯すことはない」
シラ書7―36

 終末論は、神学全体の結論である。あるいは、本論とも言える。
今次の公会議も、教会憲章の末尾に
次のように終末に関する伝統的な教えを要約し、再確認した。


1,
「私たちは地上の生活の一回限りの行程を終え」(48-4)死、
2,「各自生存中に行った善悪について報告するために、
 キリストの法廷に立ち」(同)(私審判)、
3,「善を行った人は主と共に婚宴に入り」(同)(楽園)、
4,「悪人は主を離れて、永遠の火に入り」(同)(地獄)、
5,「救い主イエズス・キリストの栄光の到来」(同)(再臨)、


6,
「善人は生命のために復活し、
 悪人は滅びのために復活する」(同)(死者の復活)、
7,「生者と死者を裁く」(現代45-2)(公審判)、
8,「世の終わり」(教会48-4)(世界の終局と一新)、
 とこれが本書の要約であり、1-8までの詳細が本文で述べられています。


そして、著者の言葉として、
「自分の死さえ体験することのできない私たちにとっては、
死後の世界は全くの謎である。
啓示されたことも、黙示的かつ比喩的な言葉で表されているので、
その実体がどのようなものか知ることができない。
しかし、実体の存在は信仰の光に照らして知ることができる。」とあります。


けれど、この神の深い謎は約900年前、
ヒルデガルトを通して明かされました。
今少しづつ、「道を知れ」の英語版を訳して、理解しようとしています。
神秘の謎が解きほぐされていきます。
ぼんやりとしていた、手ごたえのなかった信仰に
知性と理性と意志が加わっていくようです。
 何よりも、物事の善と悪がはっきりして来て、
やはり聖霊の働きと悪霊の働きを感じます。


ヒルデガルトの3部作のうちの2部、
「命を得るための書」と「神の業の書」もいつか読まなければと思っています。
 夫は同じものを、英語版、ドイツ語版、ラテン語版から読んでいますが、
私はよちよちと英語からのみです。



2018年6月9日

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