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2015年11月18日 (水)

末端に連なる者

今年の4月T教会でカトリックの洗礼を受けて、
その教会の教報誌に受洗の感想を全員が書いたのですが、
私は自分の未来を暗示したかのように、
「私は模範的なカトリック教徒にはなれないでしょう。
・・・私はせめてカトリック教徒の末端にでも連なっていたいです」
と書きました。

かつて熱心な教会生活で有名であった私たち夫婦が
なぜプロテスタント教会を出たのかというと、
教会が原因だったのではありません。
ただ信仰が現実生活の調和を乱し、
生活だけでなく、
偏りすぎると精神もおかしくなるという危険を感じたからです。
いわゆる熱心なと言われる人の思考はバランスが崩れ、
傍から見ていると狂信に近い状態になりやすいのです。

それを本人が自覚するかどうかです。

これはどの宗教にもあることで、カトリックにもあります。
その人たちはその関係の人たちからは
模範的信者、熱い信仰、熱心で忠実という賛辞がおくられます。
ときには自分でもそう思ってしまって
・・・・だからさらにさらに精進を重ねるのです。
一種の快感ですね。(私の体験から)

今私はフリーカトリック教徒と自認しています。
夫は所属教会の中心部に入って奉仕し、活動することが長年の夢であり、
強い願望でしたので、模範的教会人になろうとしています。
私はその反対で、あちこち見聞し、所属教会からも離れ、
今は別の教会(カトリック)に行っています。
夫とは完全別行動です。
教会生活中心というのは、もう二度とごめんこうむりたいと、
思うだけでなくそうならないよう常に自制しています。

遠い昔、信仰に凝り固まった私に養母は言いました。
「心がきれいになるかもしれないが、冷たい人間になっていく」と。
教会仲間だけには優しいけれど、それ以外の人に対する冷たさは、
これはまさにキリスト教徒ではなく、偽クリスチャンでしょう。
気をつけないとそうなり易いです。

どの宗教もそうですが、自分の属する所が世界の中心になって、
そこが自分の思考の出発になってしまい、
他の人と境界線を知らず知らずのうちに作ってしまうのです。
実に狭い世界の中に閉じこもってしまうのです。
そして自分は何の根拠もないのに偉いのだと思ってしまうのです。


・・・これにはほとほと疲れました。
だからむしろ人からは怠け者と言われたいし、
距離をおいた信仰生活を続けていきたいです。
どの宗教にも教派にもまた無宗教の人にも
見習うべき素晴らしい人は沢山います。

バランス、調和ということを大事にしたいのです。

 

その点、カトリックには
私以上の方も沢山おられるので、仲間多く嬉しいです。

真の信仰生活とは周囲の人に喜びをもたらすものだと思います。


2015年11月18日

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