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2015年11月11日 (水)

神父さまの優しいお話

他教会を回っていたので、一か月振りにミサに与りました。

聖書の箇所はマルコによる福音12・38-44で

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。
ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、
すなわち一クァドランス入れた。
イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。

「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、
賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。
皆は有り余る中から入れたが、
この人は、乏しい中から自分の持っている物すべて、
生活費を全部入れたからである。」

この箇所を読んで、
ああまた「全力でささげよ」という話かなと思ったのでした。
なぜそう思ったかと言うと
以前プロテスタント教会の牧師の説教で分に応じて喜んで、
全力を注いでささげるのですということを何度も聞いたからです。
(特にお金)

けれどカトリックの神父さま、全くちがうお話でした。
聖書は文字通り解釈しないで、
その中から深い意味をくみ取るのですと言われたのです。

全部捧げたら、明日はどうして生活するのでしょう。
私たちはよく考え、日々の暮らしを計画をもってやっていくのですから。

全部ささげるというのは目に見える行為のことではなく、
自分にとって大事なものーーお金も入るでしょうが、
時間とか物とか習慣とか等々を
神様のために捧げることができるかということであり、
人それぞれ異なることでしょう。
イエスは心を言われたのです。
神さまがそれを求めておられるとき、
これをささげたらどうなるかなと思うのではなく、
心から信頼しておささげするということが信仰ということなのです。
・・・というようなお話でした。

神父さまのお話はだいたい優しい、柔和なお話が多いです。
これがカトリックの特徴でしょう。
プロテスタントはだいたい聖書の言葉を
そのまま説教に用いることが多いので厳しく聞こえます。

この間千里山教会に行ったとき、こんな質問を多くされました。

この質問は懐かしいものでした。
なぜなら私も人に同じ質問をよくしていたからです。

  どこの教会に行っているのですか?
  聖書は読んでいるのですか?
  伝道はするのですか?
  教会はどこですか?・・・という質問が多かったのですが。

これがカトリックだと、誰も何も聞きません。
お元気ですかとは聞きますが、
教会はとか聖書とか伝道などとは会話にも出てきません。
これは大きな違いです。

たとえ、それを知ったとしても、「それはよろしいですね」とニコニコ。

この違いは一体何だろうと思います。

相手の自由を認める。
それがその人にとって良いことならば、
それが一番良いことなのですから。
これは徹底しています。

相手もこうしなければならないと思うことは、
相手を拘束するだけでなく、自分自身をも不自由にしているのです。

カトリックの大様さと自由さは、その自由で自分を勝手にさせない限り、
自分で自己制御できるかぎり、実にすばらしいものだと思います。


2015年11月11日

 

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