« エルサルバドルのKさん | トップページ | 父の思い出2 »

2017年6月27日 (火)

父(養父)の思い出1

父の日はどうして決まったのかわかりませんが、
やはり店の売り場に「父の日」と書かれていると
懐かしい顔が思い出されてきます。
私は父というとき、
どうしても実父と養父を区別して話さないわけにはいきません。


稀な環境で育ったので、説明しなければ人にはわからないのです。
実父と養父(私の家)とはバスで20分、
車で10分余で行ける距離に住んでいました。
実の父は私の家に時々来ました。
養父はその度に固くなっていました。
私も2~3か月ごとに姉や実父に会いに本家に行っていました。
(行かされました)それが親同志間での暗黙の了解であり、
特に養父が果たさなければならない義務のようになっていました。


実の父だと知りながら、私は何も知らないのだという顔をし続けた私。
すべてを知りながら一切顔には出さず、心に秘めたまま。
夫にも私の子供たちにも何も語らなかった私。
それだけ触れてはならない秘密として、
また私自身決して許されないことだとして・・・・
けれども養父母の前以外では、
私は○○さんの子供であるいうことで通っていました。
学校の先生たちも実父の名前を知っていたし、
校長さん達は実父の友人でもあったので、
養母は担任の先生に話していたのでした。(養父に内緒で)
ある先生は私を旧姓で読んでいました。


実父と養父はすべてが真逆でした。
育ちも教養も人格も・・そして背が高いのと低いのと、
しかし両親とも頭脳は抜群。
養父は家の貧しさのため旧制中学に入れる頭を持ちながら
あきらめ軍隊にはいりました。
それこそ実力によって戦傷で
一戦を退くまでには准尉になっていました。


実父と養父の違いはここには書きません。
ただ養母である叔母は
「私は士族の出です」と言い続けた気位の高い人であり、
「そんなことはない」と兄である実父は否定しながら、
我家は南北朝の頃に落ち延びてきた
由緒ある一族の家系に連なるものというほど、
まあ家系にこだわりを持っていた人です。
個人よりもお家大事の人でした。・・(真偽は調べなければ)


戦後教育を受けた私にはどうでもいいこと、
見下げられている養父が可哀そうだと思ったことたびたび・・・
といいながらも、気位の高さだけは遺伝子として受け継いだ馬鹿な私・・・
そんな養父が唯一誰にも負けないと自負していたのが、体力でした。
しかし頭は実に切れる人でした。
養父の身内はみな一流大学を出ているから、
よくできる血筋であろうと思います。
養父は悔しかったのでしょう。
学校の先生が親に養父を中学(旧制)に行かせるようにと頼みに来たそうです。
この話は何度も何度も言いました。
あの頭脳では許されていたら、最高学府にも行けたと誰もが認めました。
けれどもそのような工面はできず(小作人)、
長男である養父は軍隊に入ったのです。
あの当時、中学はかなりのお金が必要でした。


実父は地主、養父は小作人の家(養父の関係した地主は実父とは無関係)・・
戦後は逆転しました。
米国によって農地解放が行われ、
苦労の連続であった小作の方々の多くは土地持ちになりました。
私は両方の世界を見て大きくなりました。複雑です。


*******

養父の逸話というか武勇伝は思い出してもかなりあります。
そのいくつかを書いて、父の日の印としましょう。
私は養父と一緒に出掛けることは嫌いでしたが、
養父は私をどこへでも連れていきたがりました。
何か起こるというより、養父が何かを起こすのです。
感情のコントロールが難しいのです。


ある日、町をあげてイベントがあり、
私は養父と2人で道路わきで見ていましたが、
巡査の対応が養父の気にいらなかったと見えて、
巡査に食ってかかりました。
手をあげかけたかどうかは覚えていませんが、
もうすぐ逮捕されそうでした。
私は大声をあげてやめてと叫び、半泣きだった思います。
巡査さんは、許してくれましたけれど。


またある日、養父は口から血を出して家に帰りました。
歯は折れているようです。
歩いていると男が女を殴っているので、女の人を助けようとしたら、
男に殴られたらしいのです。
あとで聞くとそれは夫婦喧嘩のようでした。
まあ、夫婦喧嘩も危ないことになりますけれど。


ある秋、町内会の運動会。
走り競争がありました。
100メートルでしたか。やはり私も行っていました。
若い人たちが沢山でている競争です。
養父は急に「出る」といいました。
父は傷痍軍人です。片方の足は短いのです。
私は必死に止めました。
養父は46歳くらいです。・・・言い出したら聞きません。
走りました。
昔、誰よりも早く走った記憶が蘇ったのでしょう。・・走りました。
・・・そして一番になりました。
若者よりも健常者よりも早く・・・
それにしても若い時はどれほどのものだったかは恐ろしいほどです。


養父は私が中学一年の時リストラされました。
農協が事業縮小したのです。
そして小さな運送業を始めました。
荒々しい運転手たち相手の仕事です。
おだやかな性格もあれば、問題ある性格もあります。
ある日、肩を怒らせて。給料の前借をしようとやってきました。
養父は彼が自分の机まで男が来る距離を素早く計算し、
自分の机までこさせ、柔道のように囲い込み、片手をすばやくとり、
男の手の平をそろばんで恐ろしい力で打ちました。
彼は逃げていきました。
私はどうなることかとはらはらでしたが、
それは養父が戦場で鍛えた戦いのやり方でした。一瞬でした。


またある日。3人のやくざ風の男が来ました。
運送業に事故はつきもの。
うちの運転手が起こした人身身事故の当事者が彼らを雇って、
ゆすりにきたのです。
養父はそれも一瞬で判断しました。
肩をゆすりながら、あの独特の歩き方で威嚇しながらやってきました。
養父がやった戦術。
「いくら貰ってきたんだ。貰った金額よりこっちが多く出そう」ともちかけたら、
承諾して早々に立ち去りました。
これも戦いの一つです。


あるとき、得意先の人と仕事のことで、
和気あいあいと我が家に招いて食事中・・
何か養父の機嫌を損ねるようなことをお客が言ったのか
急に怒り出した養父・・
お客も怒り出し、とうとう取っ組み合いの喧嘩・・
当然のことですが得意先を失いました。


思い出して書いていたら、次々と蘇ってきました。
養父が勤め人をやめてからの我が家は戦場のようなもの。
テレビドラマでは昔、ちゃぶ台を囲んで、
家族がなかよく食事をする懐かしい話が出ますが、
あんな光景は見たことはありません。
私の周囲にもあんなことはありませんでした。
けれども家が戦いの場所のようなことはなかったでしょう。


自動車事故、故障、従業員の問題様々な出来事が夜昼区別なく起こり、
その度に処理しなければならない養父母、
お嬢様育ちの養母にとって、つらかったと思います。
だから、愚痴かわりに過度なほど、出自の誇りを言い続けたのでしょう。
毎日何が起こるかわからない、戦いの日々でした。
続きはまた書きます。



2017年6月27日

« エルサルバドルのKさん | トップページ | 父の思い出2 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1880059/70984243

この記事へのトラックバック一覧です: 父(養父)の思い出1:

« エルサルバドルのKさん | トップページ | 父の思い出2 »