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2018年2月

2018年2月23日 (金)

№251. 春に向かって

太陽があまり出ないような国の人にとっては、

春はどれほど待ちわびる季節であることか。

今年のように雪が多く降り、

氷点下の日々もあるような寒い日が続いてきた日本でも、

ことのほか春は早く来てほしいなと思います。

でもようやく道端の木々も春の準備をはじめました。




最近日本でも復活祭ということばが知られるようになり、

クリスマスとともにいつか定着するのかもしれません。

意味はどうでもいいようで、その雰囲気がムードが魅力のようです。

復活祭には教会でゆで卵にきれいな絵を描いて、

来た人たちにお祝いとして渡されます。

復活祭はもちろん、イエス・キリストの復活のお祝いの日です。

その日まで約40日間、心して意味をかみしめ

迎える準備をするのですよと今日のお説教のお話でした。

私もこのイエス・キリストの受難の日々を

心に留めながら生活しなければと思いました。

マタイ受難曲はこんなときに聴いたらいいのでしょう




今日(18日)来る復活祭に洗礼を受ける人たちが紹介されましたが、

ほぼ20人くらいの老若男女がずらりと並ばれました。

カトリックの勉強は一年くらいかかるのです。
それをあと一か月で終了し、洗礼を受けられる皆さん。

心から拍手をしたいです。

自ら求めて学ばれたのですね。
神とともに歩む道を自ら選ばれた人たち。

胸が熱くなりました。

洗礼はゴールではなく新しい一歩の始まりですが、すばらしい道です。

皆さまの復活祭での洗礼式が楽しみです。




ミサの後、月一回のうどんの日があり、

今日は本当に久しぶりに食べることにしました。

夫と知り合いの人といっしょに。

殆ど一年半ぶりです。



私の前に外国の青年がうどんを一生懸命食べていました。

この人はクリスマスのお祝い会にも来て、

一人で寂しそうに食べていたのを思い出して、声をかけました。

すぐににこっと笑って答えてくれました。

夫も話しかけ、他の人たちも話しかけて、

彼はうどんを食べている余裕がなくなったようですが。

でもとても嬉しそうで、終始にこにこしてました。




コロンビアからきている阪大の留学生だそうです。

日本の教育、それも道徳を学びに来たそうで、ちょっと驚きでした。

お名前はと聞くと、「マルコ福音書のマルコ」とまた嬉しそうに。

それからは周りのもの「マルコさん」と呼び始めました。

20分ほど話して、わかれるとき、マルコさん、「嬉しかった!」と言いました。

ずっと教会にきていたのに、声をかける人あまりなかったのですね。




声掛け運動ではないけれど、

笑顔だけでも、ちょっとした言葉だけでも、

気がついたらかけようと思ったことです。

わたしにできることとはそんなことかな。



2018年2月23日

2018年2月15日 (木)

№250. 人間とは違うもの

私の行っている教会は、梅田の中心に近く、非常に便利なところです。

建物は現代建築そのままで、一見これが教会?という感じです。

ある人によると全体はノアの箱舟を模しているということですが、

誰に聞いても、この教会の建物の意味はよくわかりません。

はじめは違和感があり、ああ、ヨーロッパにあるような美しい、

荘厳な雰囲気のある教会だったらいいなと思いましたが、

今はこのよくわからない建築物が何か好きになりました。




建物は四階建てになっていて、聖堂は三階にあり、

一階は広いロビーになっていて、いろいろな用事の方
(一般人、学生、他宗派の人、諸集会列席者)が出入りしています。




わたしが入っていく時間帯には外国の方々がいっぱいいて、

話したり、書店で買い物したり、何か食べたりしています。

国は様々ですが、多いのはフリィピン系の人です。

ときにはインド、パキスタン、バングラデシュのような人も見えます。

日曜以外は南米系の人も多く集まるようです。




今日はにぎやかです。

アジア系の40人ほどの人たちが椅子にかけて、

代わる代わるマイクをもって歌の披露です。

英語かタガログ語かわかりませんが、

とにかく楽しそうに手拍子をとりながら、歌っています。

もちろん聖歌ですが。




日本人はそれを横目でみながら、11時からのミサのため三階にいきます。

外国の方々は9時からなので、終わって仲間同士の交流会をしています。

今日は食事も少し豪華なので、何の祝日だったかなと、無知な私は思いましたが




三階の日本語のミサはとても静かで、90%が日本人、残りが外国人です。

日本語のミサは仏教系かと思うほど、瞑想的な歌であり、

どちらかというと内省的な雰囲気です。

ところが日本語ミサが終わり、聖堂から下に降りていくと、

別の世界が広がっているという感じです。




顔があったら挨拶します。

言葉はわからなくても、笑顔は同じです。

毎週違う国の人と出会っていると、本で読むのとはちがう勉強になります。

日本人はどちらかというと頭で考える。

ドイツとかスイスの気質に似ているような。

でも頭で考えるというより、体で受け止めるという気質もあるのだとわかりました。

考えるより先に手足が動く。

歌が出てくる。

ハグし合う。




ロビーの隅っこで、大鍋が3つほどシュー、シューとふいていました。

皆で鍋を囲んで、また歌を歌い、踊るのでしょう。

楽しそうでした。

日本人でも異文化にすっと入っていける人もいます。

外国人でも日本人と同じような人もいます。

植物や動物にも様々な種類や特質があるように、

人間にも多種の気質があるのでしょう。

それがまた神の働きの多面性であり、多要素であり、

それはいろどり豊かな世界のためかもしれません。

2018年2月15日

2018年2月 8日 (木)

№249. 寒い日

寒い、寒い日。

気をつけていないと、また風邪がぶり返しそう。

せっかく自力で治したのに。

ミサが終わると書店にちょっと寄って、それからすぐ電車で帰ります。

電車に乗って17分で駅に着きます。

とても簡単で近いといえるでしょう。




ホームで電車を待っていると、なぜかいつもYさんが追いかけるようにしてやってきます。

今日は電車に乗った私を見つけたのか、すぐ横にやってきて腰掛けました。

少ししか空いていないのに、彼女は細いからするっと入って、

・・・新大阪までいっしょです。

「心臓が悪いみたい。医者が嫌いで」と。

彼女は72歳。

わたしより2歳下です。

若いとき未亡人になって3人の男の子を育てたということです。

「働いてきて疲れたのよ。体もほっとして、疲労をそのまま出しているのよ。ゆっくりしてね」

とわたしは言ったのですが、

やはり70歳を過ぎるとどこか不調を訴える人が出てきます。




教会は60歳から90歳までの人が7割くらいです。

いつか来れなくなり、消えてしまう人もいます。

来たくてももうだめだという日が必ず来るのです。

教会に行けば救われるとかいうものではありません。

本当の教会は建物ではなく場所ではなく、心の内部にあるのです。

これはカトリックも言っています。




私も含めて年寄りは、いつまでかなと思いながら、通っている人が多いです。

だから教会に行ける日々を大切にしたいと思っているのです。

信仰とは神さまとわたしの問題です。

結局は自分の心の中にしっかりと信仰という根をおろして

強固な根にしておかないと、一番大切なとき、役に立たないことになってしまうでしょう。



今日のミサ、わたしの隣に教会で一番の歌い手が座られ、

美しい声で正しい音程でリードしてくださり、

歌の苦手な私もついて歌って楽しくなりました。

歌のうまい人って素敵ですね。

ただ、日本一といわれる学者神父さまのお説教は、

難しくてありがたいというところまではいきませんでした。

聖書を読む方がよくわかりました。

こんなこともあるのです。




毎週何か小さな変化はあるのですが、

聖堂に入って椅子に掛けたとき、すごく暖かくほっとするのです。

ずっとこのままここにいたいとさえ思います。

心から安らぎを感じます。

2018年2月8日

2018年2月 1日 (木)

№248. 生きること、死ぬこと、その後

「わたしは何ものなのか」

「わたしはどこから来たのか」

「わたしはどこに行くのか」

 

この問いは13、4歳の頃から起こり始め、

解決することなく長い放浪(精神的)の末、

まさに人生の終わりが近づく頃なって、

ようやく神の御憐みによりかなえられたのでした。




その問題は偉い哲学者もなかなか解決できないのでは?

といわれるかもしれません。

個々の哲学者はそういう人もいるかもしれません。

けれども、哲学者にも二種類ありまして、

神を信じているか、死後の生命を信じているか、

そもそも見えない世界を自覚し得る哲学者かどうかです。

そもそもこの世の可視的世界しか信じれない哲学者と

神を信じる哲学者とはまったく異なります。

日本にはこの世の感覚しか信じれないで

見えない世界を論議する学者の方が多いように思います。

見えない人がどんなに言葉を費やしても、

所詮見えない目で見えない世界を見ようとするのは不可能なのです。




ドイツ哲学の祖といわれる人はいろいろありますが、

その中で群を抜いて、そそりたつ巌の如き存在を示しているのは、

神秘主義者エックハルトとヤコブベーメです。

エックハルトは神という存在以前の無の世界まで到達した人、

ベーメは与えられた神秘体験による啓示によって、

天地創造、悪と善の始まり、

人間の創造、地球の創造と未来、自然、天国と地獄、

キリストの意味(ベーメはキリスト教は科学であるといっている)、

他宗教、等々・・・あらゆる疑問に対して明確に答えてくれています。




ただし、ベーメの著作を理解できるのは、真理に飢え渇き、

謙虚にへりくだり、自分を無にできる人だそうです。

そういう人に光は射し込むといいます。

ベーメの著作は英語では多数の本が出版されていますが、日本語では少数です。

キリストの道(福島正彦訳)、ヤコブベーメ開けゆく次元(南原実著)、
アウローラ(園田坦訳)、キリスト教神秘主義著作集13(南原実訳)等々




ただし、英語のできる人にはオンラインとつながることができ、
多くの著作を読むことが可能です。
・・・・・・http://jacobboehmeonline.com/home

 

 私は日本語を殆ど揃え、それから英語ができないのに、

無謀にも英語版をパソコンに取り入れ、

グーグルの翻訳とこりゃ英和(夫が入れてくれた)の翻訳機を併用し、

それでもわからない単語を電子書籍で引いて、

毎日少しづつ読んで私なりにまとめて書いています。

まるで、私は富士山に登ろうとしている小さな蟻のようです。




でも蟻はあきらめません。

蟻の性質はこつこつと死ぬまで、働き続けることです。

蟻は自分の獲得したものをどこに運ぶか知っているからです。

蟻はわたしです。

今まではあちこちと蝶々のようにひらひらしていたけれど、

今度はよいしょよいしょと蟻の歩き方を学びます。

わたしは確かに目指したゴールに到達しましたが、

その門を開いただけで、探索は終わったわけではありません。

門の中の広い神秘の世界を教えられたのです。



2018年2月1日

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