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2018年3月11日 (日)

№253. 十字架を負いて

今日のミサのお話は、素晴らしい教えでした。

スリランカ人のB神父さまでした。

静かな、謹厳な、瞑想的な方です。




聖書の中にこのような記述があります。

「さて、イエスを引いていく途中、兵士たちは、

田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を負わせ、イエスの後から運ばせた。」

マルコによる福音書21(フランシスコ会訳)
*イエスは十字架を負う力がもはやなかったからである。




この聖書のお話で、キレネ人シモンはたまたま通りかかって、

十字架という忌まわしい木を背負って刑場にいくことになった。

彼の人生はこの不意の出来事のために、すっかり変わってしまったかもしれない。

どうしてと思っただろうが、彼は抵抗もせず、イエスに代わって負っていった。

そのようにわたしたちの人生も自分の予期しないこと、したくないこと、

それがやってきたとき、このシモンのように黙々と従えるかということです。

十字架を負うということは、たいてい自分にとって、嫌なできごとだからです。

というお話でした。




ミサの後、100円のコーヒーを飲もうとして、丸テーブルにおいしいコーヒーを運びました。

隣の方に(もうここは長いのですか?」と私が聞くと、

70歳を超えた方ですが、「いいえ、3年ほど前からです。」

よく見ると杖をもっておられる。

足が悪いのかと思って(大丈夫ですか?」と聞くと、

「はい、40分歩いて教会に来ました。また歩いて帰ります。

ロザリオの祈りを唱えながらです。それがちょうどいいのです」




私はびっくり。
今日は寒いの、暑いの、歩く距離が遠いのとぶつぶつ言うわたしなのに、

この方は一週間2~3回の腎臓透析を受けながら、

今も他の身体の異常をかかえながら、顔が輝いています。

「すべて、感謝です。本当に感謝です。」と。




お話を聴きながら、またまたびっくり。

お産のとき医療ミスで半死半生になり、今も後遺症があり、その体で働き、

義母にいじめられながら、子供を育て、その間もいつも神様に感謝していました。

そして周囲の人のために祈りました。

いじわるだった義母が死ぬとき「わたしは意地悪したのに、あなたは少しも変わりなかった。

すまなかった」といいました。

そして夫も、義母もカトリックの洗礼を受けてなくなりました。

わたしは恨んだことはありません。

いつも神様に感謝していると、本当にいいことばかりがやってきます」




私に一番足りないことを今日は教えられました。

生きた体験のお話です。

心があんなにきれいだと、顔が輝くのですね。

教えられました。

今日から私も感謝ということを忘れないでいこう。




夫と教会を出たとき、あの方が杖をついて、歩いて帰って行かれるのを見ました。

幸せな方です。


2018年3月11日

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