№253. 十字架を負いて
今日のミサのお話は、素晴らしい教えでした。
スリランカ人のB神父さまでした。
静かな、謹厳な、瞑想的な方です。
聖書の中にこのような記述があります。
「さて、イエスを引いていく途中、兵士たちは、
田舎から出てきたシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を負わせ、イエスの後から運ばせた。」
マルコによる福音書21(フランシスコ会訳)
*イエスは十字架を負う力がもはやなかったからである。
この聖書のお話で、キレネ人シモンはたまたま通りかかって、
十字架という忌まわしい木を背負って刑場にいくことになった。
彼の人生はこの不意の出来事のために、すっかり変わってしまったかもしれない。
どうしてと思っただろうが、彼は抵抗もせず、イエスに代わって負っていった。
そのようにわたしたちの人生も自分の予期しないこと、したくないこと、
それがやってきたとき、このシモンのように黙々と従えるかということです。
十字架を負うということは、たいてい自分にとって、嫌なできごとだからです。
というお話でした。
ミサの後、100円のコーヒーを飲もうとして、丸テーブルにおいしいコーヒーを運びました。
隣の方に(もうここは長いのですか?」と私が聞くと、
70歳を超えた方ですが、「いいえ、3年ほど前からです。」
よく見ると杖をもっておられる。
足が悪いのかと思って(大丈夫ですか?」と聞くと、
「はい、40分歩いて教会に来ました。また歩いて帰ります。
ロザリオの祈りを唱えながらです。それがちょうどいいのです」
私はびっくり。
今日は寒いの、暑いの、歩く距離が遠いのとぶつぶつ言うわたしなのに、
この方は一週間2~3回の腎臓透析を受けながら、
今も他の身体の異常をかかえながら、顔が輝いています。
「すべて、感謝です。本当に感謝です。」と。
お話を聴きながら、またまたびっくり。
お産のとき医療ミスで半死半生になり、今も後遺症があり、その体で働き、
義母にいじめられながら、子供を育て、その間もいつも神様に感謝していました。
そして周囲の人のために祈りました。
いじわるだった義母が死ぬとき「わたしは意地悪したのに、あなたは少しも変わりなかった。
すまなかった」といいました。
そして夫も、義母もカトリックの洗礼を受けてなくなりました。
わたしは恨んだことはありません。
いつも神様に感謝していると、本当にいいことばかりがやってきます」
私に一番足りないことを今日は教えられました。
生きた体験のお話です。
心があんなにきれいだと、顔が輝くのですね。
教えられました。
今日から私も感謝ということを忘れないでいこう。
夫と教会を出たとき、あの方が杖をついて、歩いて帰って行かれるのを見ました。
幸せな方です。
2018年3月11日
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