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2018年7月

2018年7月24日 (火)

№264. 司教叙階式ミサー大阪カテドラル聖マリア大聖堂

https://www.youtube.com/watch?v=NJZj6Ke1Id4

 

大阪カテドラル聖マリア大聖堂での叙階式ミサです
30分ぐらいしてからミサが行われます。
よろしかったらご覧ください。

 

****************

この夏の温度は、かつてないような異常さです。

この前の大阪北部の地震、それから豪雨の被害が起こり、

その後のこの温度の上昇。

何か地球が怒っているような、気配さえ感じます。


この日(16日)も高い温度の予想でした。

でも司教叙階の典礼ミサに与りたくて、夫と朝7時半に家をでました。

式は11時からですが、9時には開場なのです。

暑さにどれだけ耐えられるか、準備はしていったつもりですが。

2500人の参加の予想で、敷地内には400人ほど入れるテントも張られ、

すでに聖堂内の開場を待つ人たちでいっぱいでした。

様々な修道院から来ているシスターの服は、

シスターたちにとっては修行服でしょうが、

何か華やかな、いつもと違う雰囲気を与えていました。

黒、白、グレー、エンジ、色も形も様々です。




9時聖堂内へ・・・これからミサが始まるまで2時間もあるのです。

どういう理由かわかりませんが、

1000名以上は入れるステンドグラスの聖堂の窓ガラスは

一枚残らず閉められ、外気は入らない状態で、

クーラーは昔の建築なので無し。

大きな扇風機が隅に何台も置かれていましたが、

外気の入らない密封状態で1500人近い人の息、・・




体がもつかなと思いつつ、

けれど、地下には冷房の行き届いた大ホールがあったので、

そこでスクリーンで式を見る人たちも多くいました。

要するに、自分の体調に合わせて、

場所は選んでくださいということです。




ここは、かつての細川屋敷のあったところで、

ガラシャ夫人が火を放って最期を迎えた屋敷跡です。
大阪城は目の前です。

あの頃は、屋敷から大阪城が威圧的な形で見えたことでしょう。

聖堂の正面には日本式のマリアさまの絵と下の方の両側に

高山右近とガラシャの祈る姿が描かれた巨大な絵があります。

とても美しいです。

聖堂一杯に輝くステンドグラス、そして荘厳なパイプオルガンの音。

やはり、ミサはスクリーンでなく、実際に見たかったので、

暑さに何とか耐えながら、2時間半、参加できました。




伝統的なカトリックの叙階式ミサ。

私にとって初めての経験です。

やはり長い歴史に裏付けられた、

美しい所作を伴った祭儀だなと思いました。

前田万葉枢機卿のおはなし、司教補佐の任命、

200人近い司祭たちの姿、

そして100人以上のシスター、2000人ほどの一般信者。

壮観でした。




集まった人たちの祈りと歌、やはり心打たれます。

ヴァチカンからは、教皇大使がおいでになり、

ラテン語での任命のことばを宣言されました。

気温がもっと低ければ、気持ちが集中したかもしれません。

人に迷惑かけないように、

自分の身体を保つことに精神が集中して、ちょっと残念です。




司祭もシスターも正装でしたが、ごく普通のご様子で、

きっと暑さも寒さも訓練で、耐えられるようになっているのでしょう。

心構えがちがっている。

また普通の信徒も私よりもずっと年取ったような人も感極まったようすで、

超越しているような感じで、


新入りカトリックの私はまだまだ出来損ないだなと思ったことです。




とにかく慌てない、落ち着いている、礼儀正しい、文句いわない

カトリックの教育って、素晴らしい。

私も小さな子供のときから、こんな教育を受けていたら、

もう少しよくなっていたかも

 ミサが終わって席立って帰ろうとしたとき、隣の方が

「どうもありがとうございました。おかげで涼しかったです。」と言われて、

私はキョトン。

 

お礼の理由は、私が暑さを凌ごうと扇子でパタパタとやっていて、

その風が隣のご婦人にもいったということです。

ニコニコしながらの優しいお礼の言葉に

私は何と言っていいかまごまご。

やはり違いますね。




カトリックが体ごとなじんでいる方は。

私はまだまだ、というよりとんと修行が足りないです。

あのふんわりとした雰囲気はどうしたら出るのでしょうか。

良い経験でした。

帰り道路上の温度は39度になっていました。無事に帰りました。

 

2018年7月24日

 

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2018年7月15日 (日)

№263. 本、言葉の紹介 平和

ミサの中で、信者の間で必ずこの挨拶が行われます。

「主の平和」です。

カトリックに入りたての頃、これにはとまどいました。

皆さま、手を合わせて、両隣、前後の方々、

また周囲の方々に「主の平和」といって、会釈するのです。




この習慣にもきっと深い伝統的な意味があるのでしょう。

「キリストの平和があなたがたの中にありますように」という意味だと思って、

今は先ず私の内部にそして皆様の心の中に、

キリストの平和がありますようにと周囲の人に挨拶します。

皆さま、優しい微笑みを返してくださいます。

素晴らしい伝統だと思います。




夏は、特に日本の平和について考えさせられることが多いです。

沢田教授の著書の中の「平和」は、私の思いをすっきりさせてくれました。

縦の意味と横の意味、まるで十字架のようですが、

理性と信仰をもって理解することが大切であると自分に言い聞かせています。

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澤田昭夫著「見えないものを大切に」より、

「平和」

 使徒パウロが小アジアのガラテアに宛てた手紙に、

「平和は霊の実り」だとあります。

霊によって生きる人には、神から愛と平和が与えられるというのです。

キリスト自身、最後の晩餐の席で、「私があなたたちの平和を与える。

ただし、それはこの世が与えるような平和ではない」と申されました。


愛も平和も神の賜物、霊の実りだというのです。

しかし、「平和を生み出す人は幸いだ」ともあります。

つまり、平和は神の賜物であると同時に人間の業でもあります。

ところで、人間はどうして平和を生み出せるでしょうか。


第一次世界大戦に一時流行ったのは、

権力政治や国家利益を忘れれば平和が到来するという考えでした。

権力や武力はそれ自体が悪だから、軍縮を進めよう。

国家利益を越えた人類社会組織を作り、

国際紛争はそこでの話し合いで解決しよう。

そうすれば、平和な新社会秩序が生まれるという考えでした。


しかし、その考えは失敗し、第二次世界大戦が起こりました。

強制力、武力がないと、

どんな世界秩序も維持できないことが立証されました。

権力、武力はそれ自体が目的にされると、

社会の破滅を招きます。

しかし、強制力無しの社会は混乱、混沌を招きます。


英国の歴史家、軍事史家のマイケル・ハワードは、

国際問題の解決には水平と垂直の二つの次元が必要だと言います。

水平の次元とは権力、武力に関わる世俗政治の次元で、

これなしにはどんなに立派な人道的、倫理的政策も、

無責任な作文に終わる。

垂直の次元とは人権、人類愛、信義、法の支配など、

倫理的価値の次元で、

これがないと権力、武力が自己目的になる危険がある、というのです。


この倫理的次元をさらに宗教的に深めるのは、

他人のために命を捧げるほど大きな愛はないというキリストの教えや、

初めに申した、平和は霊の実り、という考えだと言えましょう。


「見えないものを大切に」澤田昭夫著より


2018年7月15日

 

 

2018年7月 7日 (土)

№262. 本、言葉の紹介 「人生の秋に」

春秋社発行 「人生の秋に」ヘルマン・ホイヴェルス神父

 

カトリックの祈祷書「祈りの友」を読んでいたら、巻末の方に、

「最上のわざ―熟年者の祈り」とあり、

ホイヴェルス神父の「人生の秋に」からの美しい詩が載っていました。

「この祈りの友」は、洗礼の記念に神父から頂いた)
・・下記にあります・・




2014年から始まったカトリック入門講座に

一人の80代と思われる学者風の方が熱心に来られ、

必ず神父さまの身近に席をとっておいででした。

誰とも話はなさらず、勉強の後は難しい質問を神父になさり、

他の人たちはまたかという顔で、その方から離れていました。

どうしても隣に座らざるを得なくなって、

私たち夫婦はその方に話しかけました。

大阪大学の名誉教授でした。

シェイクスピアの大家でした。




元教授と毎週講座の終わったあと、

駅までの10分ほどの道を話しながら帰りました。

教授は洗礼志願者申し込みが近づくときこんなことを言われました。

「実は私は研究のために、ここへは偵察に来たのだよ。

でも、いつの間にミイラ取りがミイラになったように、

受洗したいと思うようになった。

カトリックに入りたいと思って家族に言ったら、大騒動になって・・・」と。


悲しそうでした。

特に奥様の強い反対で。

先生は心臓も悪く、歩くのもゆっくり、ゆっくりでした。

私も文学のこと、特に西洋文学の話ができてとても嬉しかったのです。

その後、私たち夫婦は別の教会に移りました。
(カトリックは自由に移動できる)




先生から、一冊の本が送られてきました。

「一冊あまっていたので、送ります。

お話をした時間、私にとって至福の時でした」

・・あまっていたにしてはよく読まれた本のようでした。

愛読書だったのです。

そして、ホイヴェルス神父の詩がありました。

S先生の心境そのままであり、

私のこれからを指し示す、輝石のような言葉でした。


********

最上のわざ―熟年者の祈り
 ホイヴェルス神父 人生の秋に


この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、

働きたいけれども休み、

しゃべりたいけれども黙り、

失望しそうなときに希望し、

従順に、平静におのれの十字架をになう―。


若者が元気いっぱいで神の道をあゆむのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役たたずとも、

親切で柔和であること―

老いの重荷は神の賜物。

古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとへ行くために―


おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、

真にえらい仕事――。

こうして何もできなくなれば、

それを謙遜に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

それは祈りだ―。

手は何もできない。

けれども最後まで合掌できる。


愛するすべての人のうえに

神の恵みを求めるために――。

すべてをなし終えたら、

臨終の床に神の声をきくだろう。

「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と――。



2018年7月7日

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