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2018年8月

2018年8月28日 (火)

№268. 有難うございました

わたしの小さな歩み」をお読みくださってありがとうございました。

過去の思い出を書くということよりも、

現在進行形の、私の日々のそれこそ小さな歩みを書いてきたのですが、

わたしの歩みの中で一つでも参考になれば嬉しいですが,

不必要なものは忘れてください。


私の残りの人生は過ぎ去った年月に較べれば、僅かしか残っておりません。

その残りの年数の中に身体の不調や、周辺の変化が起こってきます。

人生の最後の総仕上げということが待っています。

誰にでも襲う病気や、嫌ですけれど認知症など。

不慮の出来事が起こってくるのはこれからです。

その残されたまだ健全な数年の間

私はヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックの真髄を学び、

天国へのおみやげにしたいと思います。


このカトリックこそ、わたしにとって正当なるキリスト教である、

2000年来継承されてきた、純なる教えであると信じるからです。

それから聖アウグスティヌスも、学びたいと思います。

力のある限り、学び、理解し、

わたしの生は素晴らしかったと心から感謝して、

この地上生活を終えようと思います。


共に学び、共に信ずる夫とともに、死の日は別でも、

今生と同じように天にても共にあることを祈りながら・・・

この数年間、ありがとうございました。

読んでくださった方の神の祝福を祈ります。

御一人、御一人が実り豊かな生をお送りください。・・・・・・感謝


******

本について 
私の人生は本と共にです。

もの心ついたときから、本を読み始め、

だいたい月に3冊から4冊を読んできました。

74歳の今で、どれくらいの本の数になるでしょうか。

けれども、最終的に大切な本は数冊程度になりました。

聖書、ヒルデガルト、岩下壮一師のカトリックの本です。

ヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックが2000年来継承されてきた、

キリスト教の真実の教えのように私には思われます。

そして、それで十分です。


2018年8月28日

 

聖アウグスティヌスの記念日に

 

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2018年8月20日 (月)

№267. 聖母被昇天祭

8月15日は、聖母被昇天であり、カトリックの三大祭日の一つです。

復活祭、聖母被昇天祭、クリスマスと三つです。

このうち、聖母被昇天祭は、マリアを讃える日です。

無原罪のマリアが魂とともに

肉体もそのまま天にあげられたという信仰に基ずくお祝いです。

今日この頃、マリアさまという方がとても大切な意味をもっている

ということが神学的な意味においてわかってきました。

そのことは、いつの日か書くことにしまして・・


いつも夫と二人で出かけるのですが、

まだ今一つマリア様の意味が

理解しかねる夫は家にいるということで私一人教会にでかけました。

いつものミサ時間に行ったのですが

何とすでに始まっていて聖堂の中にも入れず、

補助席の一番最後でした。

すでに350人―400人ほどの人が集まり、ミサが始まっていて、

40分も過ぎていて、辛うじて聖体拝領に間に合った感じです。


日本人と外国人の合同ミサで、日本語、英語、スペイン語、

インドネシア語で行われ、賛美のダンスも交えて・・

 
最後尾の席にいるのでよくわからないのですが、

アーチ型のバラの飾りの中に美しいマリア像がおかれ、

何とも美しいお顔で微笑んでおられます。

ローソクもマリアさまに相応しくやさしい感じでまたたいています。


すべてのミサの祭儀が終わり、バラのアーチのマリアさまは、

神父と侍者に支えられて聖堂から出てきました。

一番後ろにいたので、今度はマリアさまの行列の前につくことができ、

この小さな聖なる行列な3階から階段をゆっくり降りて、

建物の玄関の広場まで出ていきました。

私は初めてなので、最後までついていきました。


外に出てマリア賛歌を歌い、写真をとったりしながら

今度はまた上にあがっていきました。

この聖母被昇天祭の行事は

フランスやスペインでは大掛かりなものです。

国民的な祭りになっています。


私の教会での行列はそのミニ版ですが、内容はおなじこと。

その後は、御祝いの飲食です。

南米やフィリピン等のお菓子や軽食、飲み物、

また無料カレー等、音楽とともに、

日本人、外国人区別なく共に賑やかに、和やかに・・


主は一つ、我らも一つ

 

2018年8月20日

 

 

 

 

2018年8月11日 (土)

№266. 本、言葉の紹介 闇をてらす足おと

「闇をてらす足おと」・・・
この表題は暗い道かあるいは闇のような場所に

コツコツと足音が聞こえ、その足音の主から光が照らされている・・
というようなイメージがわいてきます。


暗い闇、これは心の闇でもあり、現実の暗闇であるかもしれません。

その暗闇を照らす足音は、

暗い病室の長い廊下を不自由な足で見舞われる岩下神父の足音であり、

その足音は患者さんの心を照らす光だったのでしょう。


この本をお書きになったのは、芥川賞作家 重兼芳子氏です。

1986年に発行された本です。
            「闇をてらす足おと」岩下壮一と神山復生病院物語・・・春秋社


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私は岩下壮一師の生き方(信仰、生活等)に深く惹かれました。

日本人で一人の人にこんなに引き付けられ、

探求しようと思ったことはありません。

愛と知性(理性)を同時に全うされた稀有なる方のように思えます。

人間はどちらかに偏って、

中庸ということから外れることが多くみられるからです。

そして、この「闇をてらす足おと」に会い、一気に読み終わりました。


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「重兼さんが岩下神父のことを知ったのは、

昭和万葉集に4首ほど掲載された

ハンセン病患者の歌人がいるということを聞き、

神山復生病院へ取材に行かれたそうです。

その方はすでに病気は治癒していたが、眼は見えず、

四肢は麻痺し、唇も麻痺していて、残る舌と歯を巧みに操作し、

音楽を聴いたり、小説の朗読を聞いて、静かな日々を送っておられた。

たまたま、その方の愛読書が重兼さんの「ワルツ」であった。

小説を通してその方は重兼さんに信頼をおき、

せきをきったように45年前に亡くなった岩下神父のことを語りだした。


重兼さんはひたすら神父の面影を追うその方を凝視し、

一人の人間の中に45年間も生き続け、

苛酷な肉体的条件と闘う支えになっている

岩下神父とはいかなる人かと調べはじめた。

神父は100年に一度でるか出ないかの碩学であり、

並みはずれた頭脳に学問と知識が堆積されていた。


驚いた重兼さん、
「見ず知らずの私があなたを追いかけてもよいのでしょうか。

ハンセン病のこともカトリックのことも、

なにも知らない私があなたのことを書いても許してくださいますか」・・・

私は書くことをやめようとしたが、結局自然に書かされてしまったそうです。

差別と迫害の歴史を背負った生き証人が

私にペンを握らせたというべきだと書かれています。


その方(元患者)は

「これで、わたしの長い話は終わります。

何日も何日も拙い話を聞くために、よく通ってきてくれました。

えっ、わたしの今の心境をお聞きになるのですか。

イエズスさまがどのようなお方なのか、いまだ分かりませんが、

岩下神父が亡くなった直後の顔が鮮やかに思い出されます。

頬がこけて、ひげが伸びて、

深い考えの中に沈んでいるような顔でした。

あの顔がわたしの肩のところに飛びこんできて、

45年間も離れないのです。


今ではあの顔がイエズスさまなのか岩下神父なのか、

重なり合ってしまいました。

それどころか、無惨で醜いはずのわたしの顔までが合体して、

透明でかたちがなく、生命体のような気さえしてくるのです。
             「闇をてらす足おと」243ページより

 

2018年8月11日

2018年8月 2日 (木)

№265. 本、言葉の紹介 岩下壮一師

澤田昭夫教授の「見えないものを大切に」という本の中に

尊敬すべき人として岩下壮一師のことが書かれていて

早速ウキペディアやその他で調べてみて、

ただただ、驚きと賛嘆とそして感謝でした。

このような方が日本にかつていたのかと、信じられない思いでした。

ヨーロッパの哲人とも方を並べられる方

いやそれ以上の方ではないかと日本人として誇りたい気持ちになります。


今、西洋の一番の賢女といわれるヒルデガルトの本の英文を

翻訳機の力を借りながら読んでいます。

そしてその教えを真実であると思います。

その教えを私は基軸として

(なぜなら、ヒルデガルトはこれは神からの啓示であるとしている)

あらゆる思想に照らしています。

それはなかなか一致したり、調和したりすることはあまりないのですが、

岩下壮一司祭の書物、

特にカトリックの教えは本当によく似ています。


岩下神父の経歴はあまりにもすごくて、簡単にはまとめられません。

英語、仏語、ラテン語は日本語なみ、

そしてヘブル語、ギリシャ語、そしてドイツ語も。

生まれられた家庭も飛びぬけて、頭脳も秀才を飛び越えて、

そして何よりもカトリックの深い信仰、

それに基づく功徳の生活。

知識と愛の両立を全うされた方。


今、私はヒルデガルトの教えと共に、

岩下壮一師の全著作を買いそろえ、夫とともに勉強中です。

何しろ今度は日本語です。

こんなに素晴らしい書物の数々、これ以上の幸福はありません。

これは何とかして今一度多くの人が読めるように

という願いがふつふつと沸いてきました。

夫はヒルデガルトの本の訳文を出したいと

毎日何時間も翻訳に励んでいます。


そしてもう一人の偉大なる魂の持ち主、

岩下壮一師の著作も

今一度全巻復活すべきだと思いを募らせています。

カトリック教徒を問わず、

現代人の生きる指針となることまちがいありません。

すでに、岩下壮一師の著述は下記のように立派な本が出ています。


「カトリックの信仰」 講談社学術文庫、筑摩書房
「信仰の遺産」 岩波文庫 

「人間の分際」小坂井 澄 聖母文庫

**********

・・・現代人は物事の裏側を見たがり、

どんなに光輝を放つ対象でも
一応は疑いぶかくその裏面をのぞかずにはおられぬようだ。

かれらの詮索眼によって、時には偉大と称する人物も、

その醜悪面をあばかれ、

人々の失望と嘲笑をかう場合もないわけではない。

そしてそのような性癖が昂じた結果

あまりに世俗の「事実」を知りすぎた人々は、

容易に「真実」を信じようとしないのである。


他人に対する不信、社会に対する不信、

さらには神に対する不信仰も、

実はこんなところにきざしているともいえそうである。

しかし岩下師のような人物こそは、

どれほどに意地の悪い現代人の詮索にも、

決して裏面の汚点をさらすものではない。


師の高度な知的活動の裏には、

口さきだけの利己的な知識人の非行動性は見られなかった。

そこにはただライ者への絶え間ない奉仕があるだけだった。

またこのライ者の友としての愛の活動の裏には、

偽善的な自己顕示の影はみじんも見られなかった。

そこにはただ日本の思想界に

カトリシズムの市民権を得させるための研学の熱誠があるだけだった。


そしてこの師の両面の活動の中軸となったものは、

常にキリスト教の信仰であった。

実に師にあっては、考えることと信ずることと行うこととは、

常に一つであった。

なぜならば、師が思索し、信仰し、行動することは

すべてただ一つの目標、すなわちキリストを愛し、

人を愛すということ以外にはなかったからである。

  岩下壮一一巻選集  

 

「知と愛と信仰」ドイツ文学者、上智大学教授 増田和宣(故)より 抜粋



2018年8月2日

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