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2019年11月

2019年11月24日 (日)

No.274 死はある日突然に

死はある日突然に

 

018_07 「ねえ、Hさんのこと知っている?」と買い物で出会ったKさん。

「いいえ、この頃会わないので、どうしたのかなと思っている」と私。

Hさん、亡くなったそうよ。」Kさん。

あまりのことに、何の実感もわかないまま、信じられないまま、・・・

一か月ほど前に彼女に会いましたが気になることはありました。

言葉がうまく出てこないで、何かうやむやと言っている感じでした。

 

Hさんは、ご主人を亡くして、約20年。

社交ダンスもしているので、姿勢のすごくいい人で、

すらりとした体は、後ろから見ると60代くらいでした。

彼女の実年齢は、80歳です。

そもそも、彼女自身が死ぬとは思っていなかったのではないでしょうか。

 

私のマンションで突然死は多いです。

もちろん、70代、80代の人です。

ということは、私にもある日、突然に死がやってくるということもあります。

災害や事故による死もこのような突然死になるでしょう。

 

人は死ぬ瞬間、何を思うのでしょうか。

いろいろ偉い方々がお書きになっていますが、書いた方は死を経験なさってはいません。

ただ、病院や施設で看取る人は、その当の人の死にゆく姿を見て

眠るようにとか、苦痛もなく、安らかだったとか言われるかもしれませんが、

私はその人の深奥にある本体である霊魂がどうであったのかを考えてしまいます。

外側の肉体を動かしているのは、その人の霊魂です。

身体は霊魂が体から離れると、ちょうど風船から空気が抜け出てしまうと、

しわしわになってしまうように、また脱ぎ捨てられた衣類のようになってしまいます。

 

「Hさん あなたは、どこへ行ったのですか?」

肉体のあり方ではなく、其の方の本体です。肉体がその人の本体ではありません。

Hさんは、どこへ行ったのですか?」

 

数年前に亡くなられた渡部先生(カトリック)が、

息子さんに「大丈夫だ。死ぬことは何の心配もない」といわれたそうですが、

先生は日ごろから死に対して、準備をしておられたから、そのように言われたのだと思います。

ご自分がどこに行こうとしているかをよくご存じだったのです。

この私のブログの記事№236に、

渡部昇一先生のことを少し書きましたので、読んでくださったら嬉しいです。 

死んでからの自分の行くところを、学んでみるのも有意義なことだと思います。

 

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アウグスチヌス「神の国5」第21巻第3章より

(概略)

魂は神なしには、生きることはできません。

魂が現存することによって身体は生き、支配され、苦痛を感じることができます。

身体のものだと思われている苦痛は、魂に属しています。

身体が傷つけられた場所で、苦痛を感じる場合、

苦痛の原因は身体であっても、苦痛を感じるのは魂です。

 

聖書ルカによる福音書16:23-24の中で、

金持ちが「わたしはこの火炎で苦しんでいます」といったとき

彼は陰府(よみ)で苦痛を感じていたのです。

だから、身体の死は苦痛の解放とはなりません。

 

苦痛を感じるのは、魂です。

そして魂は死にません。

ゆえに、アウグスティヌスが言うことは、身体が死んでもすべての苦痛は消えないということであり、

人によっては、魂の苦痛は永遠に続くということです。

魂は神によって作られました。

やはり自分を造られた創造主(神)とのかかわり方が、

永遠に続く苦痛となるのかならないのかの分かれ道ではないでしょうか。

これもまた、神によって与えられた各自の自由意志によって選びとることですが、

 

Hさん、あなたはどこにいますか?」

 

2019年11月24日

 

2019年11月19日 (火)

No.273 神様に感謝します

Img0881 神様に感謝します

この感謝の言葉は、私が言ったのではありません。

教会で出会ったパラグアイ出身の一女性の心からの言葉です。

ミサの後、いつもはコーヒーですが、月一回は、

うどんの日があって、200円でごちそうになれます。

 

今日は、何ということでしょう。

メキシコから来た新婚さんが、私たち夫婦にうどんをおごってくれました。

二人とも背が高く、美男美女、まるで絵に描いたようなカップルです。

毎週のように会っているので、それほどびっくりしなくなりましたが、

初めて会ったときはあまりの立派な容姿に呆然としたほどです。

 

彼らと話していると、私の隣に日本人なのか外人なのかちょっとわからなかったのですが、

言葉使いと顔だちが外人のような人が腰掛けました。

私の隣の夫がすぐに「Where are you from?」と聞いてくれました。

パラグアイと彼女は答えました。

教会の人でも珍しい人です

彼女の名はマリアで、スペイン語、英語、日本語ができるようで、私は早速日本語で質問です。

パラグアイは、言語はスペイン語で、カトリック国で、

移民した日本人も7000人くらいいるそうです。

 

彼女は自分のことを日本語で話してくれました。

日本人と結婚し、3人の子供に恵まれ、2人の子供は医者になってパラグアイに帰ったということです。

そして、日本人である彼女(マリア)の夫は今年の8月に亡くなったということです。

そして、夫の死に様を感動的に話してくれました。

夫はカトリック教徒として亡くなった。

私は神様を本気で信じている。

ロザリオの祈りをいつもして、毎日神様とお話しをしている

病院に来てくれる人に、みなにロザリオの祈りをしてもらった。

私は本当に神様を信じている・・・と。

 

そして神様は彼女の3番目の息子を自閉症としてプレゼントしてくれたのだと言ったのです。

自閉症の息子が神様からのプレゼント?・・・でもマリアの言う意味がすぐわかりました。

優秀な、元気な息子2人は遠く母国へ帰り、異国で日本人の夫を失ったマリア。

彼女に神様は母親であるマリアのために自閉症の息子を与えられたというのです。

「神様に感謝している」

すてきなマリア・・・神に愛されているマリア

 

2019年11月19日

2019年11月12日 (火)

No. 272 禍と幸福は善人にも悪人にも

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禍福(わざわいと幸せ)は、善人にも悪人にも等しく加えられる

(神の国第一巻第8章の標題)

 

「なぜ、神は憐みを悪人(神に対する不敬虔、不義理)にも及ぼすのか」

という問いに対して、アウグスチヌスは、

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださるからである」

マタイによる福音書5:45

 この言葉の通りに父なる神が、それを与えておられるのだからとしかいえない。

他にどういう理由があるであろうか。と答えています。

 

私は聖書の中によく書かれる善人と悪人という意味を2~3日よく考えてみました。

これは簡単なことではありませんでした。

なぜなら、私は善人で悪人は他の人ということなら、すぐに浮かんできますが、

誰もが自分は善人で他者は悪人となれば、すべての人間は善人だけということになり、

これでは善人と悪人の区別がなくなります。

善人と悪人を本当に区別できるのは、

人間ではなく、神のみしかできないのではないかと思うようになりました。

 

それで、私はこれをすべての人間というように理解することにしました。

善悪をもった、すべての人間という意味で。 

幸運や不幸は、すべての人間に同じように、やってくるけれど、

その受け止め方がまったく異なるのではないかということです。

 

善人にとっては、

「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。

満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、

いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしはすべてが可能です。」

聖書フィリピの信徒への手紙5:12-13

 

普通の生活をしている人が突然大金を手にして、堕落の道に落ちていく。

あるいはお金に心がとらわれ、お金が神様となっていく。

富を処する力がなければ、それに負けてしまいます。

けれども、上の聖句にあるように、対処できる人間もいます。

貧にも富にも、決して魂を売らない、揺れ動くことのない人間もいます。

 

苦しみもそうです。

同じ不幸の衝撃は、善人を試すことになり、魂が浄化されるのに、

悪人の場合は彼を混乱させ、破壊していく。

善人は苦難の中にあっても神に祈り、賛美する。

悪人は神をののしり、冒涜する。

それゆえ、これはどんな境遇の中にあっても、

その人がどのように対処できるかということだとアウグティヌスは言います。

同じ運命の中に生きながら、ある人は汚物のような臭いがするのに、

ある人は芳香を発するということです。

 

これが善人であるか、悪人であるかということであり、

誰もが善人にもなれば、悪人にもなるということではないかと思われます。

これに対処する秘訣は、なかなか個人の力では無理であり、

神の憐みにすがらなければ不可能に近いと思います。

 

教会の中には、私では耐えられそうもない境遇の中にあっても、

いつもニコニコ感謝して、毎日を送っている人は沢山います。

私が模範とすべき人は沢山います。

治癒しない病気の人、自閉症の息子と暮らす母、誰にでも来る老人特有の問題、

経済問題をかかえている人等々。

 

一般社会の人と教会の人たちも、等しく同じ喜び、悲しみ、苦悩を味わいます。

けれども、どんなことにも神への信頼と感謝が、現状の生活を生き抜く力となっているのでしょう。

教会の中で素晴らしいと思うこと。

不平的会話を聞いたことがないということです。

私もそうなりたい!

 

2019年11月12日

2019年11月 5日 (火)

№271. ローマ法王を迎えるための祈り

 

     ヨハネ・パウロ2世が日本に来られてから、

Img0923-1_20191105130701 実に40数年目にカトリック信者の少ない日本においでになることになりました。

今日(2日)、

教皇フランシスコをお迎えするための、大阪教区全体の祈りの集まりがありました。

これは、私の教会で行われることであり、私にとって初めての経験となりました。

それから、一般にローマ法王と呼ばれますが、

教会では教皇と呼ばれ、通常は「パパ様」と言いいます。

ですから、私も教皇もしくは、パパ様ということにします。

 

今日担当された補佐司教が言われたように、

ローマ教皇が日本に来られるというのは、一生に一度あるかどうかということだと思います。

前のヨハネ・パウロ二世の時のことは、私もよく覚えています。

そのとき、私はカトリックではなかったけれど、とても嬉しくて、

早速法王の著書やそれに関係するものを取り寄せて、感激したものです。

 

あのときよりも、日本のカトリック信者はだんだん少なくなって、

今では全国で44万人ほどであり、そのうちで教会に行っているのは、2割ほど。

そして、教会も日本人口と同じ縮図で、老人が圧倒的に多くなりました。私もその一人ですが。

 

今日の集会は、教皇フランシスコ大勅書の言葉を、念禱という形で、

祈りをもって自分に語られる言葉として、熟慮すること50分、

それからロザリオの祈りを40分、休憩を交えながらの集まりでした。

これも私にとって初めてのことですが、念禱とは、

 

例えば、教皇の大勅書のお言葉である

「ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、

心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。」という言葉を熟慮し、

自分に示されたことばとして祈るのです。

このような項目が他に31ありました。

それで、50分です。シスターも、何十人も見えていましたが、

皆さん、慣れた方々、すぐにその姿勢に入られ、静かに黙想し、祈っておられました。

 

私は大勢でロザリオを唱えるのは初めてなので、

どうするのかとちょっと心配と期待半々で参加しました。

ロザリオに憧れていて、ロザリオはいくつか持っていたのですが、

なかなか祈ることに踏みきれなくて、

ロザリオの珠の美しさを眺めるだけでしたが、今年の1月から始めました。

一環全部は自信がないので、少しづつ唱えます。

それも文語体がやりやすいので、それを覚えて、唱え始めました。

その日から、1日も休まず、何とか続けています。

ロザリオはマリアさまを称え、マリアさまに祈るので、これをすると、優しい気持ちになれます。

 

このロザリオの祈りは、カトリックの宝だと思います。

イエス・キリストの母であるマリアに祈るとき、優しい母に祈るような気持ちになります。

 

午後2時から4時半までの祈りの会は終わりました。

パパ様をお迎えする祈りの会は終わりました。

今月25日~26日にかけておいでになるパパ様の無事を祈るだけです。

私たち、夫婦も東京でのミサに参加する予定です。

 

ロザリオの祈りに興味のある方は、ネットで検索されと、美しい祈りが出てきます。

ここにお知らせするのは、祈りの園のペテロ神父のロザリオの祈りです。

https://www.youtube.com/watch?v=OjMdpvqMMYc

 

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