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2019年12月

2019年12月28日 (土)

No. 279 おめでとう。平和あれ!

Img0288 (カトリック教会では降誕祭は終わっても、

クリスマスの喜びは、来年の一月6日頃まで続きます)

 

聖堂の中に、次々と人が入ってきます。

今日はクリスマスイヴ、通常のミサに来ない人、来れない人も今日は特別です。

普段の2倍近い信者たちがお祝いに来ます。

これでも、日本語と英語のミサは分かれているので、

両方の数からすると、800~900名になるかもしれません。

年々、外国の方が増えています。国籍も様々、人種も様々、

 

ミサを執り行うスペインの若い神父さま。

どんなに働いても疲れをしらない年代、お顔を見ているだけでも、

若いエネルギーが注入されるようです。

 

聖堂内の灯をすべて消して、それぞれがローソクを持って、歌うとき、

私はいつも遠い昔を思い出します。

地方の町の小さな教会で、親にやっとの思いで許可を得て教会のクリスマスに参加して、

あの明るい雰囲気の中で、「おめでとう、おめでとう」と言い合うとき、

私は全身に喜びと悲しみが交差するのを感じました。

自由に教会に来れない。その辛さは自由に通える人にはわかりません。

私は教会が大好きでした。

 

あのときのあの悲しみが思い出され、今の私の環境がまるで嘘のように思われます。

そして夫婦で共に集うことができます。

今日来ている人の中にも、家族に気兼ねしながら来ている人もいます。

病人をかかえている人もいます。

本人が病に、あるいはどうしようもない状況のもとで、

クリスマスのお祝いもできない人はいます。

今、集っている人の感謝と思いが主の降誕に向けられ、

そこにおいて一つになる、これこそ奇蹟です。

***********

 

次の日(25日)は、インターナショナルクリスマス、

日本人中心ではなく、外国の人と共にお祝いする日です。

日本語、英語、スペイン語が話され、祈られ、歌われました。

今日も20~30ヵ国の人たちが来ています。

これもまた、素晴らしいひと時です。

25日のクリスマスは今年は平日で、働く人は来るのは難しいはずですが、

500人~600人は集まりました。

三分の二は外国の方です。

外国のカトリック教徒は、私のように未熟なカトリックではなく、

生まれたときからの人が多いので、クリスマスを本当に聖なる日として大事にします。

前もって休暇をとって、ミサに参列するのでしょう。

 

人種を超えて、集まり、歌い、祈るとき、同じ信仰のもとに、一つとなって溶け合い、

これこそ奇蹟のように思われます。

お互い言語もわからない同志が、共に祈り、賛美し、ミサに与る。信じられないようなことです。

そして、「メリークリスマス!」・・・心からの「メリークリスマス」

 

神の平和が世界中に行われ、すべての国が国境を越えて、

一つの神の礼拝において一つにまとめられるという、新たな普遍性です。・・・

すべての民族は、神の家に集まり来り、唯一の神である主に礼拝を捧げる未来の姿・・

「ナザレのイエス2」名誉教皇ベネディクト16世 春秋社発行より

 

2019年12月28日

 

2019年12月24日 (火)

No.278 降誕

Img0117 私の敬愛する、名誉教皇ベネディクト16世の著書「ナザレのイエス」より、

降誕に関することを取り出して見ました。

イエス・キリストの降誕についてキリスト教信仰あるなしに関わらず、

少し考えてみるのもよろしいかと思います。

俗世に浸かった私たちのハートが、聖なるものに触れるとき、

普段味わうことない根源的な喜びが湧き起って来るかもしれません。

春秋社発行「ナザレのイエス:プロローグ降誕」

 

マタイによる福音書、ルカによる福音書よりの講話を参考にして

 

マタイによる福音書は、イエスの誕生の物語において、ヨセフはイエスの父ではないこと、

ヨセフはマリアが姦通(ヨセフとマリアは婚約していた)したと誤解し、

ひそかにマリアを離縁しようとしたと記しています。

そこでヨセフに夢で告げられたことは、

「ダビデの子ヨセフ、おそれずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」

マタイによる福音書1:20ということでした。

 

この言葉によって、マリアの子は男によるものではなく、

聖霊によってなった新しい創造なのです。

ヨセフは、イエスの法的な父親です。

けれども、マリアの子は、「上から」、神のもとから来るのです。

神のみが本来の意味でのイエスの「父」なのです。

このマリアにおいての新しい創造において、人類は新たに始まるのです。

 

イエスの起源?は、イエスは「どこから?」は、

イエスは「始め」そのものであり、すべてのもの(宇宙万物)がそこに根拠を持つ始原であり、

世界を秩序あるコスモスとする「光」なのです。

彼(イエス)は、神から来たのです。

彼は神です。

わたしたちのところに来られたこの始めは、始めそのものであり、

そのようなものとして人間存在の新たなあり方を開くのです。

「彼を受け入れた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた。

彼の名を信じるすべての人たち、血によらず、肉の欲によらず、

人の欲によらず、神から生まれた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた」

(ヨハネによる福音書1:12-13)

この文章は、マリアの処女懐胎とイエスの出生を示唆しています。

 

イエスを信じる者たちは、信仰によって、

イエス個人の新しい起源、根源の中へと入っていくのであり、

この起源、根源を自分のものとして受けいれるのです。

俗世から生まれた者たちも、この信仰によって新しく生まれ、

彼らは、イエス・キリストの血統の中へと入っていき、

それが彼ら自身の固有の血統となるのです。(神の子となる)

キリストにより、キリストへの信仰により、彼らは今や神から生まれたものとなるのです。

 

イエスがヨセフから生まれたのではなく、真実、聖霊により、

処女マリアから生まれたと同じように、私たちの真の血統はイエスへの信仰であり、

私たちに新たな起源、根源を与えるものです。

この「神から」から生まれた者とする信仰をもつものがキリスト者なのです。

という少し難しい話になりましたが、降誕はこの「神の子」が生まれたということです。

全人類の祖であるアダムから発して、全地に散っていったすべての民族、すべての言語、そうです、

降誕は、アダムから発する全人類をご自身のうちに再び集められたことを示しています。

 

降誕祭であるクリスマスは、実に大きな意味があるのだということ、

それは私たち一人一人の新たな誕生も意味しているのだということを共に考えたいと思ってこれを書きました。

(私はカトリック教徒であり、この信仰に生きています)

 

*神とは手の平に乗るような人の造ったものではなく、

また太陽や月、星、山、さらには人間でもなく、すべての上に存在する全宇宙の創造者であり、

見えるもの、見えないもの、人間の魂、霊、すべてのものの支配者であります。

測り知れない神秘であり、測り知れない根源的存在です。

私はそのように、理解し、信じています。

 

2019年12月24日

2019年12月17日 (火)

No.277 サンタクロースの真の意味

Img0128 クリスマスは英語の「Christmas」ですが、

これは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味です。

 

私は恥ずかしいことですけれど、

クリスマスという言葉がキリストのミサであるということをカトリック入門講座で、

神父さまによって教えられ、初めて知りました。

10代の頃からキリスト教(プロテスタント)に入りながら、

つい4年前までクリスマスの言葉の意味を知らなかったのです。

殆どのプロテスタントは決してカトリックのことを受け入れません。

由来や継承が殆どカトリックからであるのに、

プライド(?)にかけて、肯定することは難しいようです。

マスはミサ、すなわちカトリックのミサのことです。

ましてや、サンタクロースなんて、聖書にも書いてないし、

私はその由来も知りませんでした。

 

そして、世界中で、商魂も含めて「クリスマス」、

つまりその日にくっつけられたサンタクロースがどうしてこんなに広がったかといいますと、

それもカトリックの聖人ニコラオ司教の愛の行為からなのです。

私は偉そうに説明していますけれど、これもつい最近知ったことです。

何ということでしょう。

 

簡単に説明しますと、聖ニコラオは、

西暦270年に小アジア(今のトルコ)に富裕な信心深い両親のもとに生まれ、

知恵と善徳に優れた人でした。

受け継いだ莫大な財産を貧しい人たちに捧げたのです。

貧しい靴屋の3人娘のためにそっと結婚資金を出したり、貧しい地方の飢饉を救ったり、

難船した船の船員を助けたり、無実の死刑囚を助けたり、職業を問わず、

老若男女問わず、また異邦人も問わず、あらゆる人に救いの手を差し伸べました。

 

そして、12世紀から数世紀にわたって、

聖ニコラオの祝日はスイス、フランス、ドイツ、オランダなどで、子供の日となり、

かつて聖ニコラオがお金を窓に投げいれ、3人の娘を救った話がもとになって、

聖ニコラオの祝日の前夜に子供へそっとプレゼントする習慣ができました。

12月の5日の晩、子供は小船か靴を用意し、靴下を窓際にかけておいたりしたようです。

そして聖ニコラオが夜通るとき、お菓子と贈り物をいれてくれると信じたのです。

 

そうして宗教改革の頃から、プロテスタントの地方で、

この優しい聖ニコラオの訪問を廃止して、贈り物を入れた袋を背負い、

司教服になぞらえた赤服、赤ずきんで長靴をはいた髭のおじいさんの形に変え、

それをクリスマスと結びつけてしまいました。

名前も聖ニコラオをオランダなまりの「サンタ・クロース」と呼びました。

 

そして、18世紀、「サンタ・クロース」は英国にもわたり、

煙突から入って、靴や靴下にプレゼントを入れることになりました。

さらにこの習慣は、北欧に伝わり、「サンタ・クロース」はクリスマスの夜、

トナカイのそりに乗って天からおりて、

子供達のところへプレゼントを配りに行くこととなったのです。

そしてこの慣習は米国に広がり、他の国にも伝わりました。

もちろん、日本にも。

そうして、現在見られるクリスマスの情景になりました。

 

クリスマスこそ儲けようとお客を呼び込むために、

歓楽街にも、ケーキ屋にも、おもちゃ屋にも、きらきらと輝くツリーが飾られている。

クリスマスのテーマソングも流して。

それがもう年中行事になり、クリスマスとは、楽しむ日のようになりました。

 

聖ニコラオが生まれてから、1200年ほどは、

きっちりと聖人として尊敬され、その遺徳は正しく伝えられていました。

私はサンクロースとされた聖ニコラオの本当の姿と美しい愛をちょっと考え、

本来の聖ニコラオの偲んでみたいと思いました。

小さなことでもいいから、誰かのために、そっと良いことをしたいなあ・・と。

贈り物を貰うことも嬉しいけれど、何か良いことを聖ニコラオのように、人知れずそっとする。

これが一番サンタに相応しいことではと思ったりします。

 

本来はサンタクロース(聖ニコラオ)はクリスマスとは関係はありませんでしたが、

いっしょになってしまったからには、

今年のクリスマスは何か一つ良いことをしてみたいと思います。

聖ニコラオのように、人知れず・・・それはいったい何でしょう。

 

2019年12月17日

2019年12月10日 (火)

No.276 私の見習いたい人

Img0104-1 見習いたい人は、いつでも同じ信仰を共にする人たちとは限りません。

素敵な生き方をしている人は、私の身近にも沢山いらっしゃいます。

 

先月私は3週間ばかり、インフルエンザではないけれど、

少ししつこい風邪を引いて、かなり苦戦をしました。

一番ひどいとき、息ができなくて、窒息寸前になりそうで、

「主よ、助けてください。マリア様、助けてください」とお願いしました。

私は頑固な性格なので、自分の体の苦痛や不具合に対して

あまり神様に助けをお願いしないのです。

何か申し訳ないような気がするのか、自力でできることは自力でと思ってしまうのです。

本当は自力でしていると思っていることは、すべて神様の助けであることはわかっていますが。

でも、風邪も3週間で治り、ようやく正常になりました。(私は薬アレルギー)

 

私と同じ自力専門の方がいるんです。Sさんです。

その見習いたいという人は、私の住んでいるマンションの方で、

お独りになられてから、もうかなりになります。

「お歳は!」と聞いたら、「女性に歳を聞くのは失礼よ」と言われました。

こればかりは理解できません。

なぜ女性に歳を聞くのがいけないのか、聞かなければ騙されたり、間違えてしまいます。

特に男性をごまかすためかと思ったりしますが。

まあ、それはさておいて、だいたい、Sさんの歳はわかります。

五木寛之より少し上ですから。ということは、御歳88歳ということです。

 

Sさんは、ごく普通の女性です。

「病院には一切行きません。薬は飲みません。健康診断など、やったことはありません。

血圧を毎日計るだけです。一日一回は必ず外出する。食事は果物、野菜が中心。

あとは、会話する人もいない(子供はいない)ので、仏壇の夫と話します。

日常の生活は規則正しくします。それだけです。本が大好きで、毎日本を読みます。

他は何も特別なことはしていません。」ということです。

ただ、何もかも一人でしないといけないので、結構忙しいのだそうです。

 

Sさんは、メガネもなし、歩く速度も私の2倍は速い。

スーパーで買い物をしているSさんに声をかけ、しばらく話すが、

やはり耳が少し遠いのか、声がちょっと大きくなるが、それ以外は頭はしゃきしゃき。

「声をかけてくれて、有難う。話せて嬉しい」ということでした。

Sさんは、私のこれからの生き方の模範です」と心から思っているので、そう言うと、

「御主人を大切にね。できるだけ長くご一緒にね。」と。

 

アウグスティヌスの言葉を思い出します。

「人を助けたりすることは、大切なことだし、常に心がけることは大事だけれど、

私自身は、自分で自分を助ける。人を頼らないで、できるだけ自分でやる。」と。

 

「神は自ら助くるものを助く」イギリスのことわざ

God helps those who help themselves.

意味:神は自分自身で努力する人に手を差しのべる。

人に頼ろうとする前に、先ず、自助努力をしなさい。

 

自力という意志力も、実は神から与えられた力なのです。

けれども、その意志力を使って

自ら努力しようとするものを神は助けて下さるのです・・ということだと思います。

 

2019年12月10日

 

2019年12月 3日 (火)

No.275東京ドーム5万人ミサ

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東京ドームミサです

 

Img0103 巨大なドームの下に密集した大勢の人、人、

遠くにいる人たちの顔などは、全くわからない。

この会場の中に入って30分以上たちました。・・・

次第、次第に小旗を持った人たちがそわそわと動き出す。

少しづつ、少しづつ、そして旗がちぎれんばかりに振られる。

5万人の人たちが同じ方向を一斉に見る。

その先に見えた・・ニュースでもよく見る教皇の特別オープンカーが、

そしてあの白い祭服を着た教皇が車の上で満面の笑顔で、

手を振りながら、ゆっくりと広いドームの中を動いている。

ときどき、子供たちを抱き上げ、キスをしながら。

祝福を与えながら、

打ち振る旗は休みなく、みな教皇の姿に大勢の視線は集注している。

約15分間。

 

この時、5万人全員がまるで一つになったかのように見え、こんなこともあり得るのだと感動しました。

もちろん、日本人カトリック教徒が一番多かったでしょうが、

何十か国もの人々が一つになったということに、一つの希望のもとに、

一つの信じるもののゆえに、一つになった(そう思えた)・・これは素晴らしい体験でした。

 

肌の色は様々、体つきも様々、年齢も赤子から老人まで、

その後ミサは1時間以上もありましたが、

この15分間ほど全員が一つ思いになったような気がした時はありませんでした。

天国とは、このようなところではないかと思いました。

2000年前、イエスを求めて、群衆が何千人も集まったと聖書にありますが、

そのときの有様が目に浮かぶようでした。

 

けれども、このドームに入るまでの警察の方々のご尽力。

その働きはすごいものでした。

まるで警察の方々に保護されているような、監視されているような、国をあげての警護でした。

拳銃をもった警察官が、どんな不信なものも見逃さないという決意のもとに、

本当に見事な働きでした。

身分証明書の提示、ボデイ検査は当たり前。

それだけは、2000年前のイエスさまのときとは、ちがいます。

イエス・キリストを守るものは、いませんでした。

 

スーパーカリスマ教皇さまの人気に触れながら、

ふとこの場所にイエスが立っておられたら、

私たちは気づくだろうかと変わり者の私は思いました。

ひょっとしたら、イエスさまは、隅の方に押しやられ、

誰にも気づかれないでそっと立っておられたのではないでしょうか。

*********

 

私には忘れられない一人の神父がいます。

私が39歳のとき、今から37年前、お別れしたU神父です。

私はカトリックの教会に一人で行っていて、公教要理を学んでいました。

一対一で教えてくださったのです。

そしてその途中半ばで、U神父は移動になり、

そのままお会いすることもなく、私もカトリックから離れました。

けれども、私は4年前、私だけでなく夫と公教要理を学んで、カトリックの洗礼を受けたのです。

U神父からの学びを別の神父によって学び、37年前からの空白が埋められたのです。

 

そのU神父にこの大ミサの後で、ホテルの夕食のとき、隣り合わせになりました。

U神父は大勢の中の一人に過ぎない私のことを覚えてはおられませんが、私にはすぐにわかりました。

お歳は80歳で、何度もの手術をした、あまり健康ではないなあと感じられる青い顔でした。

私は自分のことを説明しました。

そして感謝し、報告しました。

37年前のあのときの私は夫とカトリックに入りましたと。

 

今のカトリックは私の求めるカトリックとはかなり違います。

それでも私がカトリック教会を愛して通うのは、その根底にある柱は不変だからです。

2000年間、決して変わらない柱がある。

それをしっかり見て、理解し、握り締めて行くこと。

ときにはその柱は覆われて全く見えなくなりそう。

でもそれは存在します。

私の目がしっかりすればするほど、見えてきます。

輝くような美しい姿で・・・・

そして、このU神父も同じでした。とても、嬉しかった。

だから私は忘れることができなかったのです。

 

5万人ミサは、終わりました。

5万人にとって、またそれぞれのところへ帰ります。

同じ日の連続となるのか、新しい日となるのか、わかりません。

フランシスコ教皇さまのメッセージには、天に向かう希望はありませんでした。

 

2019年12月3日

 

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