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2020年1月

2020年1月28日 (火)

No.284 主よ、終わりまで

010_02 青春の日々にこそ、

 お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

   「年を重ねることに喜びはない」と

 言う年齢にならないうちに。

 太陽が闇に変わらないうちに。

 月や星の光がうせないうちに。

雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

    コヘレトの言葉 12章1-2節

 

 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。

 うろたえてはならない。おののいてはならない。

 あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

       ヨシュア記 1章9節

 

私の夫は、80歳になりました。

79歳とはたった1歳違いなのに、すごく年取った感じがします。

いよいよ、最後の旅路が始まったという思いです。

もうすぐすると、私も後を追って、80の道を歩き出します。

ここまで、無事に守られたこと、

私は神にどれだけの感謝を捧げればいいのでしょう。

私たち夫婦は、健康に恵まれました。

真面目な生活をしてきたからだと言ってくれる人もいますが、

真面目な生活をしている人は、沢山います。

でも、病気になる人はなっていますから、原因はわかりません。

ただ、感謝です。

 

二人とも、若い日にキリスト教徒になりました。

教会を離れたこともありましたが、神さまから離れたことはありません。

けれども、神様に対して、いつも忠実であったわけではありません。

カトリックから見れば、明らかに異端的な道にも何度も行き

その都度強い御手によって引き戻されました。

「もう、それはそのへんでいい」ということでしょう。

今思い返せば、多くのことを見たり、聞いたり、味わったり、

そのために苦しんだりしました。

 

現世の生活が一番大事なこととして生きて来たのではありません。

現世の生は、確実に終わります。

常に真理(神)を探し続けてきました。

生まれたときから、ずっとそうしてきました。

この世に生まれたのは、神(カトリックでは真の父という)を探すためでした。

「わたしはどこから来たのか」

「わたしは何ものなのか」

「わたしはどこに行くのか」

 

この一生をかけた問いは、今私には、はっきりとわかります。

神に反逆したアダムの子孫である私は、

生まれたときから原罪を背負い、神から離されていて、

そのためにこの世で真の父(神)を探さなければなりませんでした。

そうして、神が人となられたイエス・キリストの十字架を通して、

神である存在へと帰る道が与えられ、

私はアダムが罪を犯す前の幸せな状態の中へと帰っていくということです。

(アウグスティヌスは、十字架のことを木の舟といっています。

舟に乗って海を渡り、神に帰るということです)

 

私の夫もまた、同じ道を辿っています。

私たちには、目的があるのです。

神ご自身の中へ、帰るということなのです。

80歳になった夫を見ながら、私は言います。

「帰りましょう。私たちの本当の居場所へ。

真実の安らぎのある場所へ。素晴らしいパラダイスへ」

 

2020年1月28日

 

2020年1月21日 (火)

No.283 アウグスティヌス

Img1153_20200121140801 今日は、

 カトリックのペテロ文庫から発行されている、

 「教父」の中に書かれている

     アウグスティヌスについて、少し紹介します。

 

「教父」は、36人の教父の生涯と思想を考察したものですが、

一番上に燦然と輝くのは、大聖人アウグスティヌスです。

この「教父」は、名誉教皇ベネディクト世が教皇のとき、

2007年3月から2008年6月まで

水曜謁見の中で行った「教父」に関する連続講話をまとめたものです。

*ペテロ文庫発行 ベネディクト16世  日本カトリック司教協議会認可

 

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聖アウグスティヌス(1)より抜粋

 

今日はもっとも偉大なラテン教父である

聖アウグスティヌス(紀元354-430)についてお話しします。・・

この偉大な聖人・教会博士は、

キリスト教をまったく知らない人や、キリスト教をよく知らない人からも

その名前だけはよく知られています。

アウグスティヌスは西洋世界また全世界の文化生活に深い刻印を刻んだからです。・・・・

この偉大な精神は、文明の価値あるものを受け入れ、

その本質的な豊かさを高めるとともに、

そのあとの時代を培うことのできたさまざまな理念と方法を生み出しました。

パウロ6世も次のように強調する通りです。

「古代哲学全体がアウグスティヌスの著作に流れ込み、

アウグスティヌスの著作から、

続く諸世紀の教理の伝統全体に行き渡る思潮が発するといえます。」

 

さらに、アウグスティヌはきわめて多数の著作を残した教父です。・・

とくに、「告白」は、神を賛美するために書かれた、たぐいまれな霊的自伝です。

アウグスティヌのもっとも有名な著作でもあります。

アウグスティヌの「告白」は、

その内面性と心理への関心のゆえに、現代に至るまで、

非宗教的文学を含めた西洋と西洋以外の文学の独自のモデルになったといえます。

霊的生活、自己の神秘、自己のうちに隠された神の神秘への注目は、

前例を見ない特別なものであり、

これからもずっと、いわば霊的な「頂点」であります。

・・・・アウグスティヌは、

旧約聖書がイエス・キリストへと向かう旅路であることを理解しました。

アウグスティヌは旧約聖書の美しさと哲学的な深みを理解するための鍵を見出しました。

そして、歴史におけるキリストの神秘の独自性、

また、哲学すなわち合理性と、信仰が、「ロゴス」において、

すなわち肉となった永遠のみことばであるキリストにおいて統合されることを、

ことごとく悟りました。

・・・アウグスティヌは短期間のうちに聖書の比喩的な読み方を理解しました。・・

 

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これは(1)のみであり、(5) まであります。

興味のある方はアマゾンで手に入ります。よろしかったらお求めください。

私は、いろいろな思考や思想が飛び交い、混乱を極めるこの時代、

アウグスティヌスの本を読むと落ち着きます。

そして物事を冷静に判断できるようになり、生きる姿勢を教えられます。

 

アウグスティヌスの本に出合ったのは、

岩下壮一神父さまを知ったときからですので、2年前です。

ですから、私はこの道ではまったくの新参者です。

けれども、このアウグスティヌスの著作に出会わなかったら、

私は路頭に迷っていたでしょう。

 

聖書の読み方、そしてその深い意味は、

すばらしい指導者によらない限り、なかなか会得できないものです。

なぜなら、この神秘的な言葉は、

誰でもが容易にわからないように、深い真理は

覆い隠されている面が多いからです。

深い霊性と知性と祈りによってしか、

理解できないことも沢山あることをアウグスティヌは言っております。

聖書は自分勝手に解釈すると、

ときには真逆的な生き方になるときもあります。

 

2020年1月21日

2020年1月14日 (火)

No.282 私のブログは文字だらけ

Img0083_20200114143501 普通はブログを出しているというと、

身近なこと、

何か楽しそうなこと、

面白いことなど、

読んで下さる方に提供することが多いのですが、

私のブログは文章だけ、

それも小難しいことを書き並べたものであり、

これに付き合って下さる方は、

並々ならぬ忍耐心と好奇心と探求心をお持ちの方であると思います。

改めて、読者の皆様に有難く、感謝いたします。

 

私自身は、どんな分厚い本でも、読みたいものは完全に読みますし、

大変だと思ったことはなく、興味のある本であれば、

分厚いものであれはあるほど、喜びと楽しさが倍加されるのです。

 

でも今どき、それほど本が好きで、

時間をそれに当てている人は珍しいことだということは、よく承知しています。

けれども、文字人間である私は、

世界の古今の超有名な人生の教師たちから学ぶには、

本しかないのだと思うのです。

彼らはもうこの世には肉体としてはいないけれど、

彼らの霊魂は私たちと共にあり、

今もなお書物において語り、教えているからです。

その最高のものが聖書であると思います。

 

もちろん、アウグスチヌスも、ヒルデガルトも、

そしてトルストイもドストエフスキーもパスカルも・・・

彼らの霊魂は生きて今も語りかけています。

だから、私の周囲には様々な人の教えや、

またときには彼らの間違いも、養いの糧となるのです。

どんな偉人も多少の間違いはありますから。

 

神は理性であり、知性である。

そして文字は神の与えられしもの。

ただ、文字は神の与えらしものですが、悪魔もこれに通じています。

文字であれば何でもいいわけではありません。

良書は神から来るもの、悪書は悪から来て、人を悪への道に誘います。

良書は知らず知らずのうちに、精神を高みへと導き、豊かなものとしますが、

悪書は知らず知らずのうちに、精神を劣化させ、下降させていきます。

 

どんなものでも2つに分かれています。右手と左手のように。

2つの道に分かれています。

どちらに行くかは、各自の意志に任されています。

 

2020年1月14日

2020年1月 7日 (火)

No.281 老人の祝福

028_02 私の行っているカトリック教会では、

様々な集会がありますが、

その一つに「今日を楽しむ会」として、

60歳以上の方々が集まって、

ロザリオの祈りをしたり、

神父から「終活」のお話しを聞いたりしています。

 

「終活」というと、自分の死のための締めくくりの準備という考えが一般的ですが、

教会の「終活」は、もっぱら、魂、すなわち死後の魂のあり方の学びになります。

今生でよく働き、かなり疲れた体という衣服を脱いで、死の彼方に旅立つとき、

一番大事なのは、自分の行く先であろうと思いますが、

これにはカトリックといえども基本的には天国を目指しているのですが、

そのあり方、行程は現今の神学ではいろいろな見解があるようです。

 

それを集まった者たち(圧倒的に女性)は、

それぞれの意見を述べ、神父は皆の意見を聞きながら断定的には答えず、

それぞれの思考状態に任せています。

もちろん、神父としての神学上(?)の教えは言いますが。

 

今日も楽しみながら、この深遠な問題にたいして、

60代、70代、80代の年輩たちは、頭を駆使して、

考えをまとめて皆の前で述べました。

これは知力の訓練になりますよ。

私は必ずしも、神父と同じではありません。

集まった15、6人の人たちと同じでもありません。

私は私の尊敬すべき聖人の指針に教えられ、

よく考えながら自分なりの思想を組み立てていきますから。

それが許されるのは、カトリックのすばらしさだと思います。

上から一方的に押さえつけることはありません。

 

勉強が終わると、持参した昼食を楽しみながら、話に興じます。

またこれも楽しい時間です。

興が募ると神父も歌い出す。ギターを奏でながら。

神父は41歳の頭髪以外はハンサムな、音楽好きな明るいスペイン人。

どこまで理解できるか分からない日本語で、

自分の祖母に近い人たちとのやりとり。

でも、結構喜んで、年取った私たちを若返らせてくれました。

故郷アンダルシアへの想いを込めて、

ギターを弾き、歌い、ダンスまではありませんでしたが。

でも、スペインの家では、ママは踊ったとか。

 

いろいろな経歴の人たちの考えを聞きながら、とても参考になります。

若いときから働いてきた人が多いです。

私よりもはるかにしっかりしていて、教えられます。

ただし、出席者で夫婦でというのは、私たちだけです。

これは、自慢(?)ですかね?

 

年取って時間も与えられ、このように単なる趣味の会ではなく、

人生の深遠なることを話し合えることは、

まさに神の祝福であると心から感謝したことです。

 

若き神父に祝福を! 

そして天国への同行者である、老人仲間に祝福を!

 

2020年1月7日

 

 

2020年1月 1日 (水)

No.280 私の元旦ミサ

011_05 日本人の多くは、元旦には初詣に行くでしょうが、

私は教会へ行きます。

晴れた清々しい日、年の初めはやはり、

何か素晴らしいことが待っているのではないかと期待し、

希望を持って進もうという気持ちになります。

 

教会の9時からのミサは英語のみ、11時からは日本語のみですが、

夫が英語ミサを見てみようというので、早く行くことにしました。

英語ミサは半分くらいは終わっていましたが、

元旦そうそう来ている外国の方は、500名ほど。

英語のミサが終わって聖堂から出て来た顔見知りの人の中に、

この前の20日のパーティで知り合ったナイジェリアの方がいて、

Happy New Year」と言って握手をしてくれました。

こちらも慣れぬ英語で「Happy New Year」です。

前身黒で決めたかっこいいファションでしたが、アパレル関係の仕事をしているとのこと。

カメルーンの友達は今日は来ませんでした。

私の教会は、とにかくいろいろな国の人が来ます。びっくりします。

 

マリリンがにっこりして、「あめでとう」と言ってくれ、

私が「あなたにとって良い年でありますように」と言うと、

彼女は首を横に振って、「ううん、みんながハッピーになるように」と何度も言いました。

みんながハッピーになるように・・・

彼女は50代で日本人の夫を亡くした未亡人で、一人で暮らしています。

その彼女が、みんながハッピーにならなければいけないというのです。

彼女の手を握っていると、彼女の温かい血が伝わって来るようでした。

 

またこんなことがありました。

この間まで、ミサの最中、何度も車いすごと倒れた若い青年。

彼はてんかんの持病をかかえ、いつ発作が起きるか絶えず不安の中にいるのです。

また薬の副作用で、その影響も出ています。

その彼が29日、突然立ち上がり、立ったままミサに与りました。

あれほど弱っていたのに。

後で聞くと「聖霊が立ち上れ」と言ったのだそうです。

そうして今日も倒れたときに頭を打たないために枕をかかえ、

細心の準備をしてミサに臨んだのですが、彼は立っていました。

夫が後で聞くと、「マリア様が助けてくれた」と言ったそうです。

 

今日もいろいろなことを神様は見せてくださいました。

「神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。

 あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。

 あなたのわざが世界に知られ、

 救いがすべての国に知られるように。

 詩篇67:2-3

 

このブログを読んで下さる皆さまに

Happy New YearI pray to you for the grace of God.

 

2020年1月1日

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