日記・コラム・つぶやき

2020年2月18日 (火)

No.287 平穏に

010_02_20200218210001 私のこの小さなブログも、

 毎日「コロナウイルス」の影響から逃れられず、

やはり少しは書かざるを得ません。

毎日、メディアでの報道に、

あるいはネットでの報道に一喜一憂する日々です。

街はマスク姿が多く、電車もいつもより人の乗り降りは減っています。

車掌さんも、マスク、お店の人もマスク・・・・

そういえばお店からマスクが消えました。

 

毎日曜日のミサもますます人は少なくなり、

空いた椅子が目立つほどです。

特に外国の方の減り方は、すごいです。

よほど注意をしているのでしょう。

日本人のように保険が全員に適用されるわけではありませんから。

 

でも、そういう状態の中で、今日はとても嬉しくなる出会いがありました。

アルジェリアから来たというとても個性的な黒人の方。

誠実で、明るく、見るからに魅力ある男性です。

彼と私たち夫婦が話していたら、すーと近寄って来たきれいな日本の女性。

彼女は

「私はこの人と結婚します。私はカトリックではありませんが、カトリックになって結婚するんですよ。」

と嬉しそうに自己紹介してくれました。

きっと今カトリック入門講座を受けていて、

今度の復活祭に受洗し、その後結婚するのかもしれません。

「この教会で結婚式をします。」と彼女は、嬉しそうに言いました。

 

アルジェリアの彼は日本語は下手、彼女は英語ができない。

それでコミュニケーションはどうしているのかと聞くと、

「ハートとハートで理解できます」と明快に答えてくれました。

愛し合う二人には、言葉はいらないのかもしれません。

うつうつとした日々に咲いた、美しい花のような二人です。

神の祝福を!

 

***********

外出を控えている方々のために、

私が最近読んで、深い感銘と喜びを味わった本を紹介します。

どちらもアマゾンで入手できます。

アウグスティヌスとか、ヒルデガルトとかと流れが違っているように見えますが、

深い霊的世界を現実にあてはめて考えることができ、

人間界を歩かれたイエスキリストの痕跡が、実感として理解できると私は思います。

 

「キリストと聖骸布」 ガエタノ・コンプリ 文庫ぎんが堂

「契約の櫃(はこ)」 ジョナサン・グレイ 徳間書店

 

これは、どちらもアマゾンで入手できます。

どちらの著者も深い聖書の知識と敬虔な信仰に基ずく、誠実な文章で書かれた

感銘を与える本です。

 

2020年2月18日

 

 

 

 

2020年2月11日 (火)

No.286 素敵な先生

047_01 今日の日曜ミサ(英語)も先週のように、

 来る人が少なくなっています。

 少ないと言っても、

英語ミサだけでも250名くらいは来ていますが、

通常は500名くらいだったので、やはりガラガラといった感じです。

 

特に子供連れの家族は、注意をしてるようです。

日本語ミサの方も、コロナウイルスの心配からか

老人の方は教会に来ることを控えておられるようです。

私も夫も立派な老人なのですが・・今のところは、元気です。

 

日本語ミサが終わってから、ロビーでYさんと立ち話。

彼女は45歳で中学の教師です。

授業もこなしながら、生徒の生活指導もしている元気溢れる、

とても魅力的な女性です。

とても立派な体格で、

やせた体力のない男子などには負けないでしょう。

けれども、やはり荒っぽい男子生徒もいるらしく、

打たれて、入院もしたことがあるとか。

「何と大変な・・・」と言うと、

「いいえ、可愛いものですよ。私は本当に子供達が可愛いのです。」

と笑いながら言うYさん。

 

子供と大人との中間を生きる思春期の子供たち。

子供たちの環境は大変なものだといいます。

「でも、その子供達の親も大変ですね?」と言うと、

「もっと、大変です」

親も子も将来が見えないのだそうです。

何十年前の子供達とは違う、不安定な世の中。

そういう時代に、子供と向き合い、

一人一人話を聞きながら指導していくYさんを

素晴らしいなあと思いました。

 

彼女は毎日、教会の朝7時のミサに出ているそうです。

その後、学校に行くのです。

そして日曜日にはきちんとミサに出ます。

彼女は5年前にカトリックに入ったのだそうです。

祈らずにはおられないと言います。

おそらく、日々、祈りの中で力を与えられているのでしょう。

 

明るくて、謙虚で、優しく、包容力があり、

ああ、こんな先生に出会ったら、子供達は一生忘れないだろうなと思います。

彼女は学校では、どんなことでも受け止める、

豪快な女性のように思われるかもしれないけれど、繊細な気持ちの人です。

神への祈りを欠かしません。

教会には教えられる人は沢山います

けれどもYさんのように、体を張って子供達を教え、

守っているこんな素敵な先生もいます。

私は、本当に何もできない老人ですが、

人とコミュニケーションをするのがとても楽しいです。

 

今日のミサ(英語、日本語)の前後で、

10名以上の方々と挨拶したり、話したり、写真を撮ったりしました。

外国の方も日本人も。

人間と触れ合うのは、生きた教えになります。

 

2020年2月11日

2020年2月 4日 (火)

No.285 いつもの日曜日、けれども違う日曜日

 Img0234 コロナウイルスのニュースが

   日本を世界を駆け巡っています。

 発生してから鎮静化することなく、

広がりつつあります。

 

いつもの変わらぬ日曜日、教会にいつものように行きましたが、

今日は外国の人たちも3分の1は、来ていません。

そして珍しいことに、マスクをして来ていました。

外国の方がマスクをしているのをあまり見たことはありませんが、

今日ばかりは用心しているようでした。

 

私の夫が英語ミサで、

ギターやオルガン、パーカッションの人たちと一緒にマラカスをやるので、

80歳の夫の身体のことも心配で、途中からですが、

英語ミサに少しだけ参加しています。

もちろん、私は英語はわかりませんが、

若い元気な外国の人たちが聖歌を歌っているのを聴くと、元気になってきます。

 

けれども、今日は後ろの方は、スカスカでした。

最後尾からでも、最前の神父や夫が見えました。

気をつけるようにという連絡網がなされているのかもしれません。

いずれにしても、これ以上広がらないようにと願うばかりですが、

ニュースを見ると大きくなるばかりです。

 

私のすぐ前に、折りたたみ椅子に座っていた大きな身体の外国人(男性)。

ヨーロッパ系のような50歳前後の方でしたが、

聖体拝領の後、自分の椅子の所に帰り、すぐには椅子にかけないで、

床に膝まづいて、手を組み、そのままの姿勢で5分ほど祈っておられました。

その姿を見て、何と美しいことかと思いました。

カトリックの国で生まれて、信仰を持った人は、

自然に神への崇拝を態度であらわします。

それは、周囲に誰がいようとかまわず、すぐに跪いて祈ります。

特にイタリア、ポーランド、南米の方に多いです。

 

私にはできません。それは、彼らにとっては自然体の姿だからです。

羨ましいと思いながら、私には不可能だと思ってしまいます。

おそらく、赤ちゃんのときから、そういうふうに育てられたのでしょう。

映画や映像で、自分よりもはるかに身分高く高貴な人の前に出たとき

片足を斜めに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げる挨拶を見ますが、

女性の方がよく祭壇に向かってその挨拶をしています。

男性は頭を下げていますが、

時々腰掛けている椅子から降りて、跪いて祈っています。

残念ですが、日本人には殆どありません。

私の前の背の高い、大きな外国の人。

コロナウイルスのためにも祈られたのでしょうか。

祈りを教えられた思いでした。

 

ミサの後、聖堂内に、3~4回会ったナイジェリアのKがいました

笑って近づいて握手してくれましたが、マスクはしていませんでした。

Kさんには、マスクは似合わないと思いますが、

それでも気をつけなくてはね。

 

2020年2月4日

 

2020年1月28日 (火)

No.284 主よ、終わりまで

010_02 青春の日々にこそ、

 お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

   「年を重ねることに喜びはない」と

 言う年齢にならないうちに。

 太陽が闇に変わらないうちに。

 月や星の光がうせないうちに。

雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

    コヘレトの言葉 12章1-2節

 

 わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。

 うろたえてはならない。おののいてはならない。

 あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。

       ヨシュア記 1章9節

 

私の夫は、80歳になりました。

79歳とはたった1歳違いなのに、すごく年取った感じがします。

いよいよ、最後の旅路が始まったという思いです。

もうすぐすると、私も後を追って、80の道を歩き出します。

ここまで、無事に守られたこと、

私は神にどれだけの感謝を捧げればいいのでしょう。

私たち夫婦は、健康に恵まれました。

真面目な生活をしてきたからだと言ってくれる人もいますが、

真面目な生活をしている人は、沢山います。

でも、病気になる人はなっていますから、原因はわかりません。

ただ、感謝です。

 

二人とも、若い日にキリスト教徒になりました。

教会を離れたこともありましたが、神さまから離れたことはありません。

けれども、神様に対して、いつも忠実であったわけではありません。

カトリックから見れば、明らかに異端的な道にも何度も行き

その都度強い御手によって引き戻されました。

「もう、それはそのへんでいい」ということでしょう。

今思い返せば、多くのことを見たり、聞いたり、味わったり、

そのために苦しんだりしました。

 

現世の生活が一番大事なこととして生きて来たのではありません。

現世の生は、確実に終わります。

常に真理(神)を探し続けてきました。

生まれたときから、ずっとそうしてきました。

この世に生まれたのは、神(カトリックでは真の父という)を探すためでした。

「わたしはどこから来たのか」

「わたしは何ものなのか」

「わたしはどこに行くのか」

 

この一生をかけた問いは、今私には、はっきりとわかります。

神に反逆したアダムの子孫である私は、

生まれたときから原罪を背負い、神から離されていて、

そのためにこの世で真の父(神)を探さなければなりませんでした。

そうして、神が人となられたイエス・キリストの十字架を通して、

神である存在へと帰る道が与えられ、

私はアダムが罪を犯す前の幸せな状態の中へと帰っていくということです。

(アウグスティヌスは、十字架のことを木の舟といっています。

舟に乗って海を渡り、神に帰るということです)

 

私の夫もまた、同じ道を辿っています。

私たちには、目的があるのです。

神ご自身の中へ、帰るということなのです。

80歳になった夫を見ながら、私は言います。

「帰りましょう。私たちの本当の居場所へ。

真実の安らぎのある場所へ。素晴らしいパラダイスへ」

 

2020年1月28日

 

2020年1月21日 (火)

No.283 アウグスティヌス

Img1153_20200121140801 今日は、

 カトリックのペテロ文庫から発行されている、

 「教父」の中に書かれている

     アウグスティヌスについて、少し紹介します。

 

「教父」は、36人の教父の生涯と思想を考察したものですが、

一番上に燦然と輝くのは、大聖人アウグスティヌスです。

この「教父」は、名誉教皇ベネディクト世が教皇のとき、

2007年3月から2008年6月まで

水曜謁見の中で行った「教父」に関する連続講話をまとめたものです。

*ペテロ文庫発行 ベネディクト16世  日本カトリック司教協議会認可

 

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聖アウグスティヌス(1)より抜粋

 

今日はもっとも偉大なラテン教父である

聖アウグスティヌス(紀元354-430)についてお話しします。・・

この偉大な聖人・教会博士は、

キリスト教をまったく知らない人や、キリスト教をよく知らない人からも

その名前だけはよく知られています。

アウグスティヌスは西洋世界また全世界の文化生活に深い刻印を刻んだからです。・・・・

この偉大な精神は、文明の価値あるものを受け入れ、

その本質的な豊かさを高めるとともに、

そのあとの時代を培うことのできたさまざまな理念と方法を生み出しました。

パウロ6世も次のように強調する通りです。

「古代哲学全体がアウグスティヌスの著作に流れ込み、

アウグスティヌスの著作から、

続く諸世紀の教理の伝統全体に行き渡る思潮が発するといえます。」

 

さらに、アウグスティヌはきわめて多数の著作を残した教父です。・・

とくに、「告白」は、神を賛美するために書かれた、たぐいまれな霊的自伝です。

アウグスティヌのもっとも有名な著作でもあります。

アウグスティヌの「告白」は、

その内面性と心理への関心のゆえに、現代に至るまで、

非宗教的文学を含めた西洋と西洋以外の文学の独自のモデルになったといえます。

霊的生活、自己の神秘、自己のうちに隠された神の神秘への注目は、

前例を見ない特別なものであり、

これからもずっと、いわば霊的な「頂点」であります。

・・・・アウグスティヌは、

旧約聖書がイエス・キリストへと向かう旅路であることを理解しました。

アウグスティヌは旧約聖書の美しさと哲学的な深みを理解するための鍵を見出しました。

そして、歴史におけるキリストの神秘の独自性、

また、哲学すなわち合理性と、信仰が、「ロゴス」において、

すなわち肉となった永遠のみことばであるキリストにおいて統合されることを、

ことごとく悟りました。

・・・アウグスティヌは短期間のうちに聖書の比喩的な読み方を理解しました。・・

 

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これは(1)のみであり、(5) まであります。

興味のある方はアマゾンで手に入ります。よろしかったらお求めください。

私は、いろいろな思考や思想が飛び交い、混乱を極めるこの時代、

アウグスティヌスの本を読むと落ち着きます。

そして物事を冷静に判断できるようになり、生きる姿勢を教えられます。

 

アウグスティヌスの本に出合ったのは、

岩下壮一神父さまを知ったときからですので、2年前です。

ですから、私はこの道ではまったくの新参者です。

けれども、このアウグスティヌスの著作に出会わなかったら、

私は路頭に迷っていたでしょう。

 

聖書の読み方、そしてその深い意味は、

すばらしい指導者によらない限り、なかなか会得できないものです。

なぜなら、この神秘的な言葉は、

誰でもが容易にわからないように、深い真理は

覆い隠されている面が多いからです。

深い霊性と知性と祈りによってしか、

理解できないことも沢山あることをアウグスティヌは言っております。

聖書は自分勝手に解釈すると、

ときには真逆的な生き方になるときもあります。

 

2020年1月21日

2020年1月14日 (火)

No.282 私のブログは文字だらけ

Img0083_20200114143501 普通はブログを出しているというと、

身近なこと、

何か楽しそうなこと、

面白いことなど、

読んで下さる方に提供することが多いのですが、

私のブログは文章だけ、

それも小難しいことを書き並べたものであり、

これに付き合って下さる方は、

並々ならぬ忍耐心と好奇心と探求心をお持ちの方であると思います。

改めて、読者の皆様に有難く、感謝いたします。

 

私自身は、どんな分厚い本でも、読みたいものは完全に読みますし、

大変だと思ったことはなく、興味のある本であれば、

分厚いものであれはあるほど、喜びと楽しさが倍加されるのです。

 

でも今どき、それほど本が好きで、

時間をそれに当てている人は珍しいことだということは、よく承知しています。

けれども、文字人間である私は、

世界の古今の超有名な人生の教師たちから学ぶには、

本しかないのだと思うのです。

彼らはもうこの世には肉体としてはいないけれど、

彼らの霊魂は私たちと共にあり、

今もなお書物において語り、教えているからです。

その最高のものが聖書であると思います。

 

もちろん、アウグスチヌスも、ヒルデガルトも、

そしてトルストイもドストエフスキーもパスカルも・・・

彼らの霊魂は生きて今も語りかけています。

だから、私の周囲には様々な人の教えや、

またときには彼らの間違いも、養いの糧となるのです。

どんな偉人も多少の間違いはありますから。

 

神は理性であり、知性である。

そして文字は神の与えられしもの。

ただ、文字は神の与えらしものですが、悪魔もこれに通じています。

文字であれば何でもいいわけではありません。

良書は神から来るもの、悪書は悪から来て、人を悪への道に誘います。

良書は知らず知らずのうちに、精神を高みへと導き、豊かなものとしますが、

悪書は知らず知らずのうちに、精神を劣化させ、下降させていきます。

 

どんなものでも2つに分かれています。右手と左手のように。

2つの道に分かれています。

どちらに行くかは、各自の意志に任されています。

 

2020年1月14日

2020年1月 7日 (火)

No.281 老人の祝福

028_02 私の行っているカトリック教会では、

様々な集会がありますが、

その一つに「今日を楽しむ会」として、

60歳以上の方々が集まって、

ロザリオの祈りをしたり、

神父から「終活」のお話しを聞いたりしています。

 

「終活」というと、自分の死のための締めくくりの準備という考えが一般的ですが、

教会の「終活」は、もっぱら、魂、すなわち死後の魂のあり方の学びになります。

今生でよく働き、かなり疲れた体という衣服を脱いで、死の彼方に旅立つとき、

一番大事なのは、自分の行く先であろうと思いますが、

これにはカトリックといえども基本的には天国を目指しているのですが、

そのあり方、行程は現今の神学ではいろいろな見解があるようです。

 

それを集まった者たち(圧倒的に女性)は、

それぞれの意見を述べ、神父は皆の意見を聞きながら断定的には答えず、

それぞれの思考状態に任せています。

もちろん、神父としての神学上(?)の教えは言いますが。

 

今日も楽しみながら、この深遠な問題にたいして、

60代、70代、80代の年輩たちは、頭を駆使して、

考えをまとめて皆の前で述べました。

これは知力の訓練になりますよ。

私は必ずしも、神父と同じではありません。

集まった15、6人の人たちと同じでもありません。

私は私の尊敬すべき聖人の指針に教えられ、

よく考えながら自分なりの思想を組み立てていきますから。

それが許されるのは、カトリックのすばらしさだと思います。

上から一方的に押さえつけることはありません。

 

勉強が終わると、持参した昼食を楽しみながら、話に興じます。

またこれも楽しい時間です。

興が募ると神父も歌い出す。ギターを奏でながら。

神父は41歳の頭髪以外はハンサムな、音楽好きな明るいスペイン人。

どこまで理解できるか分からない日本語で、

自分の祖母に近い人たちとのやりとり。

でも、結構喜んで、年取った私たちを若返らせてくれました。

故郷アンダルシアへの想いを込めて、

ギターを弾き、歌い、ダンスまではありませんでしたが。

でも、スペインの家では、ママは踊ったとか。

 

いろいろな経歴の人たちの考えを聞きながら、とても参考になります。

若いときから働いてきた人が多いです。

私よりもはるかにしっかりしていて、教えられます。

ただし、出席者で夫婦でというのは、私たちだけです。

これは、自慢(?)ですかね?

 

年取って時間も与えられ、このように単なる趣味の会ではなく、

人生の深遠なることを話し合えることは、

まさに神の祝福であると心から感謝したことです。

 

若き神父に祝福を! 

そして天国への同行者である、老人仲間に祝福を!

 

2020年1月7日

 

 

2020年1月 1日 (水)

No.280 私の元旦ミサ

011_05 日本人の多くは、元旦には初詣に行くでしょうが、

私は教会へ行きます。

晴れた清々しい日、年の初めはやはり、

何か素晴らしいことが待っているのではないかと期待し、

希望を持って進もうという気持ちになります。

 

教会の9時からのミサは英語のみ、11時からは日本語のみですが、

夫が英語ミサを見てみようというので、早く行くことにしました。

英語ミサは半分くらいは終わっていましたが、

元旦そうそう来ている外国の方は、500名ほど。

英語のミサが終わって聖堂から出て来た顔見知りの人の中に、

この前の20日のパーティで知り合ったナイジェリアの方がいて、

Happy New Year」と言って握手をしてくれました。

こちらも慣れぬ英語で「Happy New Year」です。

前身黒で決めたかっこいいファションでしたが、アパレル関係の仕事をしているとのこと。

カメルーンの友達は今日は来ませんでした。

私の教会は、とにかくいろいろな国の人が来ます。びっくりします。

 

マリリンがにっこりして、「あめでとう」と言ってくれ、

私が「あなたにとって良い年でありますように」と言うと、

彼女は首を横に振って、「ううん、みんながハッピーになるように」と何度も言いました。

みんながハッピーになるように・・・

彼女は50代で日本人の夫を亡くした未亡人で、一人で暮らしています。

その彼女が、みんながハッピーにならなければいけないというのです。

彼女の手を握っていると、彼女の温かい血が伝わって来るようでした。

 

またこんなことがありました。

この間まで、ミサの最中、何度も車いすごと倒れた若い青年。

彼はてんかんの持病をかかえ、いつ発作が起きるか絶えず不安の中にいるのです。

また薬の副作用で、その影響も出ています。

その彼が29日、突然立ち上がり、立ったままミサに与りました。

あれほど弱っていたのに。

後で聞くと「聖霊が立ち上れ」と言ったのだそうです。

そうして今日も倒れたときに頭を打たないために枕をかかえ、

細心の準備をしてミサに臨んだのですが、彼は立っていました。

夫が後で聞くと、「マリア様が助けてくれた」と言ったそうです。

 

今日もいろいろなことを神様は見せてくださいました。

「神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。

 あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。

 あなたのわざが世界に知られ、

 救いがすべての国に知られるように。

 詩篇67:2-3

 

このブログを読んで下さる皆さまに

Happy New YearI pray to you for the grace of God.

 

2020年1月1日

2019年12月28日 (土)

No. 279 おめでとう。平和あれ!

Img0288 (カトリック教会では降誕祭は終わっても、

クリスマスの喜びは、来年の一月6日頃まで続きます)

 

聖堂の中に、次々と人が入ってきます。

今日はクリスマスイヴ、通常のミサに来ない人、来れない人も今日は特別です。

普段の2倍近い信者たちがお祝いに来ます。

これでも、日本語と英語のミサは分かれているので、

両方の数からすると、800~900名になるかもしれません。

年々、外国の方が増えています。国籍も様々、人種も様々、

 

ミサを執り行うスペインの若い神父さま。

どんなに働いても疲れをしらない年代、お顔を見ているだけでも、

若いエネルギーが注入されるようです。

 

聖堂内の灯をすべて消して、それぞれがローソクを持って、歌うとき、

私はいつも遠い昔を思い出します。

地方の町の小さな教会で、親にやっとの思いで許可を得て教会のクリスマスに参加して、

あの明るい雰囲気の中で、「おめでとう、おめでとう」と言い合うとき、

私は全身に喜びと悲しみが交差するのを感じました。

自由に教会に来れない。その辛さは自由に通える人にはわかりません。

私は教会が大好きでした。

 

あのときのあの悲しみが思い出され、今の私の環境がまるで嘘のように思われます。

そして夫婦で共に集うことができます。

今日来ている人の中にも、家族に気兼ねしながら来ている人もいます。

病人をかかえている人もいます。

本人が病に、あるいはどうしようもない状況のもとで、

クリスマスのお祝いもできない人はいます。

今、集っている人の感謝と思いが主の降誕に向けられ、

そこにおいて一つになる、これこそ奇蹟です。

***********

 

次の日(25日)は、インターナショナルクリスマス、

日本人中心ではなく、外国の人と共にお祝いする日です。

日本語、英語、スペイン語が話され、祈られ、歌われました。

今日も20~30ヵ国の人たちが来ています。

これもまた、素晴らしいひと時です。

25日のクリスマスは今年は平日で、働く人は来るのは難しいはずですが、

500人~600人は集まりました。

三分の二は外国の方です。

外国のカトリック教徒は、私のように未熟なカトリックではなく、

生まれたときからの人が多いので、クリスマスを本当に聖なる日として大事にします。

前もって休暇をとって、ミサに参列するのでしょう。

 

人種を超えて、集まり、歌い、祈るとき、同じ信仰のもとに、一つとなって溶け合い、

これこそ奇蹟のように思われます。

お互い言語もわからない同志が、共に祈り、賛美し、ミサに与る。信じられないようなことです。

そして、「メリークリスマス!」・・・心からの「メリークリスマス」

 

神の平和が世界中に行われ、すべての国が国境を越えて、

一つの神の礼拝において一つにまとめられるという、新たな普遍性です。・・・

すべての民族は、神の家に集まり来り、唯一の神である主に礼拝を捧げる未来の姿・・

「ナザレのイエス2」名誉教皇ベネディクト16世 春秋社発行より

 

2019年12月28日

 

2019年12月24日 (火)

No.278 降誕

Img0117 私の敬愛する、名誉教皇ベネディクト16世の著書「ナザレのイエス」より、

降誕に関することを取り出して見ました。

イエス・キリストの降誕についてキリスト教信仰あるなしに関わらず、

少し考えてみるのもよろしいかと思います。

俗世に浸かった私たちのハートが、聖なるものに触れるとき、

普段味わうことない根源的な喜びが湧き起って来るかもしれません。

春秋社発行「ナザレのイエス:プロローグ降誕」

 

マタイによる福音書、ルカによる福音書よりの講話を参考にして

 

マタイによる福音書は、イエスの誕生の物語において、ヨセフはイエスの父ではないこと、

ヨセフはマリアが姦通(ヨセフとマリアは婚約していた)したと誤解し、

ひそかにマリアを離縁しようとしたと記しています。

そこでヨセフに夢で告げられたことは、

「ダビデの子ヨセフ、おそれずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」

マタイによる福音書1:20ということでした。

 

この言葉によって、マリアの子は男によるものではなく、

聖霊によってなった新しい創造なのです。

ヨセフは、イエスの法的な父親です。

けれども、マリアの子は、「上から」、神のもとから来るのです。

神のみが本来の意味でのイエスの「父」なのです。

このマリアにおいての新しい創造において、人類は新たに始まるのです。

 

イエスの起源?は、イエスは「どこから?」は、

イエスは「始め」そのものであり、すべてのもの(宇宙万物)がそこに根拠を持つ始原であり、

世界を秩序あるコスモスとする「光」なのです。

彼(イエス)は、神から来たのです。

彼は神です。

わたしたちのところに来られたこの始めは、始めそのものであり、

そのようなものとして人間存在の新たなあり方を開くのです。

「彼を受け入れた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた。

彼の名を信じるすべての人たち、血によらず、肉の欲によらず、

人の欲によらず、神から生まれた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた」

(ヨハネによる福音書1:12-13)

この文章は、マリアの処女懐胎とイエスの出生を示唆しています。

 

イエスを信じる者たちは、信仰によって、

イエス個人の新しい起源、根源の中へと入っていくのであり、

この起源、根源を自分のものとして受けいれるのです。

俗世から生まれた者たちも、この信仰によって新しく生まれ、

彼らは、イエス・キリストの血統の中へと入っていき、

それが彼ら自身の固有の血統となるのです。(神の子となる)

キリストにより、キリストへの信仰により、彼らは今や神から生まれたものとなるのです。

 

イエスがヨセフから生まれたのではなく、真実、聖霊により、

処女マリアから生まれたと同じように、私たちの真の血統はイエスへの信仰であり、

私たちに新たな起源、根源を与えるものです。

この「神から」から生まれた者とする信仰をもつものがキリスト者なのです。

という少し難しい話になりましたが、降誕はこの「神の子」が生まれたということです。

全人類の祖であるアダムから発して、全地に散っていったすべての民族、すべての言語、そうです、

降誕は、アダムから発する全人類をご自身のうちに再び集められたことを示しています。

 

降誕祭であるクリスマスは、実に大きな意味があるのだということ、

それは私たち一人一人の新たな誕生も意味しているのだということを共に考えたいと思ってこれを書きました。

(私はカトリック教徒であり、この信仰に生きています)

 

*神とは手の平に乗るような人の造ったものではなく、

また太陽や月、星、山、さらには人間でもなく、すべての上に存在する全宇宙の創造者であり、

見えるもの、見えないもの、人間の魂、霊、すべてのものの支配者であります。

測り知れない神秘であり、測り知れない根源的存在です。

私はそのように、理解し、信じています。

 

2019年12月24日

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