日記・コラム・つぶやき

2019年11月12日 (火)

No. 272 禍と幸福は善人にも悪人にも

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禍福(わざわいと幸せ)は、善人にも悪人にも等しく加えられる

(神の国第一巻第8章の標題)

 

「なぜ、神は憐みを悪人(神に対する不敬虔、不義理)にも及ぼすのか」

という問いに対して、アウグスチヌスは、

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださるからである」

マタイによる福音書5:45

 この言葉の通りに父なる神が、それを与えておられるのだからとしかいえない。

他にどういう理由があるであろうか。と答えています。

 

私は聖書の中によく書かれる善人と悪人という意味を2~3日よく考えてみました。

これは簡単なことではありませんでした。

なぜなら、私は善人で悪人は他の人ということなら、すぐに浮かんできますが、

誰もが自分は善人で他者は悪人となれば、すべての人間は善人だけということになり、

これでは善人と悪人の区別がなくなります。

善人と悪人を本当に区別できるのは、

人間ではなく、神のみしかできないのではないかと思うようになりました。

 

それで、私はこれをすべての人間というように理解することにしました。

善悪をもった、すべての人間という意味で。 

幸運や不幸は、すべての人間に同じように、やってくるけれど、

その受け止め方がまったく異なるのではないかということです。

 

善人にとっては、

「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。

満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、

いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

わたしを強めてくださる方のお蔭で、わたしはすべてが可能です。」

聖書フィリピの信徒への手紙5:12-13

 

普通の生活をしている人が突然大金を手にして、堕落の道に落ちていく。

あるいはお金に心がとらわれ、お金が神様となっていく。

富を処する力がなければ、それに負けてしまいます。

けれども、上の聖句にあるように、対処できる人間もいます。

貧にも富にも、決して魂を売らない、揺れ動くことのない人間もいます。

 

苦しみもそうです。

同じ不幸の衝撃は、善人を試すことになり、魂が浄化されるのに、

悪人の場合は彼を混乱させ、破壊していく。

善人は苦難の中にあっても神に祈り、賛美する。

悪人は神をののしり、冒涜する。

それゆえ、これはどんな境遇の中にあっても、

その人がどのように対処できるかということだとアウグティヌスは言います。

同じ運命の中に生きながら、ある人は汚物のような臭いがするのに、

ある人は芳香を発するということです。

 

これが善人であるか、悪人であるかということであり、

誰もが善人にもなれば、悪人にもなるということではないかと思われます。

これに対処する秘訣は、なかなか個人の力では無理であり、

神の憐みにすがらなければ不可能に近いと思います。

 

教会の中には、私では耐えられそうもない境遇の中にあっても、

いつもニコニコ感謝して、毎日を送っている人は沢山います。

私が模範とすべき人は沢山います。

治癒しない病気の人、自閉症の息子と暮らす母、誰にでも来る老人特有の問題、

経済問題をかかえている人等々。

 

一般社会の人と教会の人たちも、等しく同じ喜び、悲しみ、苦悩を味わいます。

けれども、どんなことにも神への信頼と感謝が、現状の生活を生き抜く力となっているのでしょう。

教会の中で素晴らしいと思うこと。

不平的会話を聞いたことがないということです。

私もそうなりたい!

 

2019年11月12日

2019年11月 5日 (火)

№271. ローマ法王を迎えるための祈り

 

     ヨハネ・パウロ2世が日本に来られてから、

Img0923-1_20191105130701 実に40数年目にカトリック信者の少ない日本においでになることになりました。

今日(2日)、

教皇フランシスコをお迎えするための、大阪教区全体の祈りの集まりがありました。

これは、私の教会で行われることであり、私にとって初めての経験となりました。

それから、一般にローマ法王と呼ばれますが、

教会では教皇と呼ばれ、通常は「パパ様」と言いいます。

ですから、私も教皇もしくは、パパ様ということにします。

 

今日担当された補佐司教が言われたように、

ローマ教皇が日本に来られるというのは、一生に一度あるかどうかということだと思います。

前のヨハネ・パウロ二世の時のことは、私もよく覚えています。

そのとき、私はカトリックではなかったけれど、とても嬉しくて、

早速法王の著書やそれに関係するものを取り寄せて、感激したものです。

 

あのときよりも、日本のカトリック信者はだんだん少なくなって、

今では全国で44万人ほどであり、そのうちで教会に行っているのは、2割ほど。

そして、教会も日本人口と同じ縮図で、老人が圧倒的に多くなりました。私もその一人ですが。

 

今日の集会は、教皇フランシスコ大勅書の言葉を、念禱という形で、

祈りをもって自分に語られる言葉として、熟慮すること50分、

それからロザリオの祈りを40分、休憩を交えながらの集まりでした。

これも私にとって初めてのことですが、念禱とは、

 

例えば、教皇の大勅書のお言葉である

「ゆるせないと思うことが幾度もあることでしょう。けれどもゆるしとは、

心の平安を得るために、わたしたちの弱い手に与えられた道具なのです。」という言葉を熟慮し、

自分に示されたことばとして祈るのです。

このような項目が他に31ありました。

それで、50分です。シスターも、何十人も見えていましたが、

皆さん、慣れた方々、すぐにその姿勢に入られ、静かに黙想し、祈っておられました。

 

私は大勢でロザリオを唱えるのは初めてなので、

どうするのかとちょっと心配と期待半々で参加しました。

ロザリオに憧れていて、ロザリオはいくつか持っていたのですが、

なかなか祈ることに踏みきれなくて、

ロザリオの珠の美しさを眺めるだけでしたが、今年の1月から始めました。

一環全部は自信がないので、少しづつ唱えます。

それも文語体がやりやすいので、それを覚えて、唱え始めました。

その日から、1日も休まず、何とか続けています。

ロザリオはマリアさまを称え、マリアさまに祈るので、これをすると、優しい気持ちになれます。

 

このロザリオの祈りは、カトリックの宝だと思います。

イエス・キリストの母であるマリアに祈るとき、優しい母に祈るような気持ちになります。

 

午後2時から4時半までの祈りの会は終わりました。

パパ様をお迎えする祈りの会は終わりました。

今月25日~26日にかけておいでになるパパ様の無事を祈るだけです。

私たち、夫婦も東京でのミサに参加する予定です。

 

ロザリオの祈りに興味のある方は、ネットで検索されと、美しい祈りが出てきます。

ここにお知らせするのは、祈りの園のペテロ神父のロザリオの祈りです。

https://www.youtube.com/watch?v=OjMdpvqMMYc

 

2019年10月29日 (火)

№270. 神の導きによって

 

は決して、いわゆる「かかあ天下」ではありません。

けれども、何かが頭に強烈に閃くのは、いつも夫より私の方なのです。

そうして、閃くと同時に行動に移すのが、私なのです。

夫は、私が行動に移した後、2-3か月してから、同じ方向に歩きだすのです。

それは、私が決意したら、もう動かないと思うからかもしれません。

けれども、最近夫は2-3か月ではなく、一週間もしくは、2-3日で同じ方向になります。

 

夫・・「どうしてアウグスティヌスに辿り着いたのだ?」

私・・「岩下壮一師が教えてくれたのよ」

 

夫・・「岩下壮一師をどうして知ったの?」

私・・「澤田昭夫教授の本よ」

 

夫・・「澤田昭夫をどうして知ったのか?」

私・・「現代カトリックの大きな問題点を調べていたら、澤田昭夫教授の論文を見つけたの。

    ネットでね。その問題点について、詳細に書いてあったの」

 

私たち夫婦は、こうした会話をしました。

この会話の一連の流れが、アウグスティヌスまで到達するには、約二年かかりました。

この私の大きな問題、大きな疑問が、最終的に真理へのゴールに導きました。

私はこの問題点に少し触れましょう。

今ではこのことは、かなり克服し、自分で正しいとされるものを学んでいるので、

大きな疑惑に近づいても、前ほどおたおたしなくなりました。

 

私は、現在のカトリックの教えとあり方に、かなり悩みました。

けれども、アウグスティヌスのいうように、この世の教会は、天と地の要素が混在していて、

地球の終わりの日まで、それは続くのだということを納得し、受け入れることができました。

*天は天の国で、神を信じる清められた善き霊の存在するところ、

 地はこの世のことで、欲望のままに生きる肉なる生き方を表す。善き霊と悪の霊の混在する所、

 

教会はこの世においては、決して完全に聖なる場所ではなく、私も含めて、

キリスト信者の心の中も、天なるものと地なるものが混在し、戦っているのだということです。

また、それを許されているのは神であり、戦いの中でこそ、真実なるものが鍛えられるからです。

 

現在のカトリックは公教要理を教えません。

岩下神父はこの公教要理について、詳細なる本を遺しました。

1000ページもある、「カトリックの信仰」です。

私は、公教要理は、カトリックの要であり、柱だと思っていたのですが。

これなくして、カトリックの信仰がわかるのでしょうかと私は思いますが。

教会が教えなければ、自分で学べばいいというのが、今の私の生き方です。

そのための資料や書籍は、カトリックの書店にいつもおかれているのですから。

 

アウグスティヌスの天の国、地の国は「神の国」と題して出されています。

邦訳で1巻から5巻まであります。

アウグスティヌスの厖大な書籍の中から、「神の国」が一番学びやすいように思えます。

私はアウグスティヌスの書簡、キリスト教の教え、告白、ヨハネによる福音書説教、

共観福音書説教、初期哲学論、神学論、神の国の3巻、4巻、5巻を読みましたが、

やはり神の国から読んでみるのがいいと、私には思われます。

沢山の項目別があり、それぞれ説明されているので、

読みたいところを読む方法もありますが、私はだいたい通して読みます。

ときどき、少しづつ、学んで私なりに考えたことを書いてみたいと思います。

 

神、悪魔、天使、人間と人類の創造、神の永遠の約束、死の起源について、

自由意志による堕落、楽園における生活等々・・あらゆる方面に及んでいます。

 

なお、澤田昭夫教授著「革新的保守主義のすすめ」PHP研究所発行も、

とても参考になりました。

 

 

2019年10月29日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2019年10月22日 (火)

№269. 私の小さな歩み(2) 新しい第二の出発

私はまたこのブログを再開します。

私はもう二度とこのブログを書くことはないだろうと思っていましたが、

なぜか、心に訴えるものがあって、

私の誕生日である今月22日から、再出発することにしました。

不定期に掲載しますが、読んで下さる方がおられたら幸いです。

 

私は76歳になりました。

去年の8月28日のアウグスティヌスの記念日にご挨拶してから、

約一年二か月ぶりです。

私は、この間、毎日アウグスティヌスの著作を繙きました。

邦訳で30冊以上ある著作で、理解しながら、噛みしめながら読むので、

読めるのは一か月で一冊ほどです。

それでも、遅々として進まないように見えても、

確実に真理に近づいているという満足感でいっぱいです。

 

私は独学です。ひたすら、真理とは、真のキリスト教とは・・・と探し続けたゴールが

アウグスティヌス、ヒルデガルト、岩下壮一師のカトリックの教えでありました。

それからは、もう動くことはありません。

また、ヒルデガルトの英語版もゆっくりと翻訳ソフトを使いながら、学んでいます。

 

「アウグスティヌスは、全キリスト教史を通じて、最もすぐれた思想家として、

単にカトリックとプロテスタント両教会だけでなく、人類の共通財産となっている。

この意味で、アウグスティヌスは、

思想も持つ普遍性の高みを示す稀有な人物であったということ

ができる」

 名城大学非常勤講師 土岐正策「アウグスティヌス著作集の月報」より

 

私は学びは、頭に知識として留まっていては、何の意味もない。

その学びが自己をはっきりと変え、知識が知恵となり、

そしてそれは大きな、広い愛へと変わっていくものだと、アウグスティヌスが言うように、

私自身をより良き人間へと昇華させていくのだと信じて、

第二の歩みを続けたいと思います。

私の思考の基盤は、アウグスティヌスの学びであり、それを柱にして、

私の得たこと、教えられたことを書きたいと思います。

アウグスティヌスは、私たちが生きるために大切なあらゆることを教えています。

 

なお、私が読んでいますアウグスティヌスの翻訳本は、

教文館の「アウグスティヌス著作集全30巻」です

他にも訳本はありますが、神への信仰を持った方が訳されたのか、

とても誠実な翻訳であると思います。

価格は、少し高いですが、これをお勧めします。

 

また、この小さなブログをよろしくお願いいたします。

 

2019年10月22日

 

*上部右枠の「バックナンバー」をクリックすれば、

 2017年12月以前のブログが表示されます。

(私がカトリックに到達するまでには、長い日数がかかりました。

すべての経験は、最終点に達するためのものでした。

その経過を「歩み」として書いています。)

 

2018年8月28日 (火)

№268. 有難うございました

わたしの小さな歩み」をお読みくださってありがとうございました。

過去の思い出を書くということよりも、

現在進行形の、私の日々のそれこそ小さな歩みを書いてきたのですが、

わたしの歩みの中で一つでも参考になれば嬉しいですが,

不必要なものは忘れてください。


私の残りの人生は過ぎ去った年月に較べれば、僅かしか残っておりません。

その残りの年数の中に身体の不調や、周辺の変化が起こってきます。

人生の最後の総仕上げということが待っています。

誰にでも襲う病気や、嫌ですけれど認知症など。

不慮の出来事が起こってくるのはこれからです。

その残されたまだ健全な数年の間

私はヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックの真髄を学び、

天国へのおみやげにしたいと思います。


このカトリックこそ、わたしにとって正当なるキリスト教である、

2000年来継承されてきた、純なる教えであると信じるからです。

それから聖アウグスティヌスも、学びたいと思います。

力のある限り、学び、理解し、

わたしの生は素晴らしかったと心から感謝して、

この地上生活を終えようと思います。


共に学び、共に信ずる夫とともに、死の日は別でも、

今生と同じように天にても共にあることを祈りながら・・・

この数年間、ありがとうございました。

読んでくださった方の神の祝福を祈ります。

御一人、御一人が実り豊かな生をお送りください。・・・・・・感謝


******

本について 
私の人生は本と共にです。

もの心ついたときから、本を読み始め、

だいたい月に3冊から4冊を読んできました。

74歳の今で、どれくらいの本の数になるでしょうか。

けれども、最終的に大切な本は数冊程度になりました。

聖書、ヒルデガルト、岩下壮一師のカトリックの本です。

ヒルデガルトと岩下壮一師のカトリックが2000年来継承されてきた、

キリスト教の真実の教えのように私には思われます。

そして、それで十分です。


2018年8月28日

 

聖アウグスティヌスの記念日に

 

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2018年8月20日 (月)

№267. 聖母被昇天祭

8月15日は、聖母被昇天であり、カトリックの三大祭日の一つです。

復活祭、聖母被昇天祭、クリスマスと三つです。

このうち、聖母被昇天祭は、マリアを讃える日です。

無原罪のマリアが魂とともに

肉体もそのまま天にあげられたという信仰に基ずくお祝いです。

今日この頃、マリアさまという方がとても大切な意味をもっている

ということが神学的な意味においてわかってきました。

そのことは、いつの日か書くことにしまして・・


いつも夫と二人で出かけるのですが、

まだ今一つマリア様の意味が

理解しかねる夫は家にいるということで私一人教会にでかけました。

いつものミサ時間に行ったのですが

何とすでに始まっていて聖堂の中にも入れず、

補助席の一番最後でした。

すでに350人―400人ほどの人が集まり、ミサが始まっていて、

40分も過ぎていて、辛うじて聖体拝領に間に合った感じです。


日本人と外国人の合同ミサで、日本語、英語、スペイン語、

インドネシア語で行われ、賛美のダンスも交えて・・

 
最後尾の席にいるのでよくわからないのですが、

アーチ型のバラの飾りの中に美しいマリア像がおかれ、

何とも美しいお顔で微笑んでおられます。

ローソクもマリアさまに相応しくやさしい感じでまたたいています。


すべてのミサの祭儀が終わり、バラのアーチのマリアさまは、

神父と侍者に支えられて聖堂から出てきました。

一番後ろにいたので、今度はマリアさまの行列の前につくことができ、

この小さな聖なる行列な3階から階段をゆっくり降りて、

建物の玄関の広場まで出ていきました。

私は初めてなので、最後までついていきました。


外に出てマリア賛歌を歌い、写真をとったりしながら

今度はまた上にあがっていきました。

この聖母被昇天祭の行事は

フランスやスペインでは大掛かりなものです。

国民的な祭りになっています。


私の教会での行列はそのミニ版ですが、内容はおなじこと。

その後は、御祝いの飲食です。

南米やフィリピン等のお菓子や軽食、飲み物、

また無料カレー等、音楽とともに、

日本人、外国人区別なく共に賑やかに、和やかに・・


主は一つ、我らも一つ

 

2018年8月20日

 

 

 

 

2018年8月11日 (土)

№266. 本、言葉の紹介 闇をてらす足おと

「闇をてらす足おと」・・・
この表題は暗い道かあるいは闇のような場所に

コツコツと足音が聞こえ、その足音の主から光が照らされている・・
というようなイメージがわいてきます。


暗い闇、これは心の闇でもあり、現実の暗闇であるかもしれません。

その暗闇を照らす足音は、

暗い病室の長い廊下を不自由な足で見舞われる岩下神父の足音であり、

その足音は患者さんの心を照らす光だったのでしょう。


この本をお書きになったのは、芥川賞作家 重兼芳子氏です。

1986年に発行された本です。
            「闇をてらす足おと」岩下壮一と神山復生病院物語・・・春秋社


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私は岩下壮一師の生き方(信仰、生活等)に深く惹かれました。

日本人で一人の人にこんなに引き付けられ、

探求しようと思ったことはありません。

愛と知性(理性)を同時に全うされた稀有なる方のように思えます。

人間はどちらかに偏って、

中庸ということから外れることが多くみられるからです。

そして、この「闇をてらす足おと」に会い、一気に読み終わりました。


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「重兼さんが岩下神父のことを知ったのは、

昭和万葉集に4首ほど掲載された

ハンセン病患者の歌人がいるということを聞き、

神山復生病院へ取材に行かれたそうです。

その方はすでに病気は治癒していたが、眼は見えず、

四肢は麻痺し、唇も麻痺していて、残る舌と歯を巧みに操作し、

音楽を聴いたり、小説の朗読を聞いて、静かな日々を送っておられた。

たまたま、その方の愛読書が重兼さんの「ワルツ」であった。

小説を通してその方は重兼さんに信頼をおき、

せきをきったように45年前に亡くなった岩下神父のことを語りだした。


重兼さんはひたすら神父の面影を追うその方を凝視し、

一人の人間の中に45年間も生き続け、

苛酷な肉体的条件と闘う支えになっている

岩下神父とはいかなる人かと調べはじめた。

神父は100年に一度でるか出ないかの碩学であり、

並みはずれた頭脳に学問と知識が堆積されていた。


驚いた重兼さん、
「見ず知らずの私があなたを追いかけてもよいのでしょうか。

ハンセン病のこともカトリックのことも、

なにも知らない私があなたのことを書いても許してくださいますか」・・・

私は書くことをやめようとしたが、結局自然に書かされてしまったそうです。

差別と迫害の歴史を背負った生き証人が

私にペンを握らせたというべきだと書かれています。


その方(元患者)は

「これで、わたしの長い話は終わります。

何日も何日も拙い話を聞くために、よく通ってきてくれました。

えっ、わたしの今の心境をお聞きになるのですか。

イエズスさまがどのようなお方なのか、いまだ分かりませんが、

岩下神父が亡くなった直後の顔が鮮やかに思い出されます。

頬がこけて、ひげが伸びて、

深い考えの中に沈んでいるような顔でした。

あの顔がわたしの肩のところに飛びこんできて、

45年間も離れないのです。


今ではあの顔がイエズスさまなのか岩下神父なのか、

重なり合ってしまいました。

それどころか、無惨で醜いはずのわたしの顔までが合体して、

透明でかたちがなく、生命体のような気さえしてくるのです。
             「闇をてらす足おと」243ページより

 

2018年8月11日

2018年8月 2日 (木)

№265. 本、言葉の紹介 岩下壮一師

澤田昭夫教授の「見えないものを大切に」という本の中に

尊敬すべき人として岩下壮一師のことが書かれていて

早速ウキペディアやその他で調べてみて、

ただただ、驚きと賛嘆とそして感謝でした。

このような方が日本にかつていたのかと、信じられない思いでした。

ヨーロッパの哲人とも方を並べられる方

いやそれ以上の方ではないかと日本人として誇りたい気持ちになります。


今、西洋の一番の賢女といわれるヒルデガルトの本の英文を

翻訳機の力を借りながら読んでいます。

そしてその教えを真実であると思います。

その教えを私は基軸として

(なぜなら、ヒルデガルトはこれは神からの啓示であるとしている)

あらゆる思想に照らしています。

それはなかなか一致したり、調和したりすることはあまりないのですが、

岩下壮一司祭の書物、

特にカトリックの教えは本当によく似ています。


岩下神父の経歴はあまりにもすごくて、簡単にはまとめられません。

英語、仏語、ラテン語は日本語なみ、

そしてヘブル語、ギリシャ語、そしてドイツ語も。

生まれられた家庭も飛びぬけて、頭脳も秀才を飛び越えて、

そして何よりもカトリックの深い信仰、

それに基づく功徳の生活。

知識と愛の両立を全うされた方。


今、私はヒルデガルトの教えと共に、

岩下壮一師の全著作を買いそろえ、夫とともに勉強中です。

何しろ今度は日本語です。

こんなに素晴らしい書物の数々、これ以上の幸福はありません。

これは何とかして今一度多くの人が読めるように

という願いがふつふつと沸いてきました。

夫はヒルデガルトの本の訳文を出したいと

毎日何時間も翻訳に励んでいます。


そしてもう一人の偉大なる魂の持ち主、

岩下壮一師の著作も

今一度全巻復活すべきだと思いを募らせています。

カトリック教徒を問わず、

現代人の生きる指針となることまちがいありません。

すでに、岩下壮一師の著述は下記のように立派な本が出ています。


「カトリックの信仰」 講談社学術文庫、筑摩書房
「信仰の遺産」 岩波文庫 

「人間の分際」小坂井 澄 聖母文庫

**********

・・・現代人は物事の裏側を見たがり、

どんなに光輝を放つ対象でも
一応は疑いぶかくその裏面をのぞかずにはおられぬようだ。

かれらの詮索眼によって、時には偉大と称する人物も、

その醜悪面をあばかれ、

人々の失望と嘲笑をかう場合もないわけではない。

そしてそのような性癖が昂じた結果

あまりに世俗の「事実」を知りすぎた人々は、

容易に「真実」を信じようとしないのである。


他人に対する不信、社会に対する不信、

さらには神に対する不信仰も、

実はこんなところにきざしているともいえそうである。

しかし岩下師のような人物こそは、

どれほどに意地の悪い現代人の詮索にも、

決して裏面の汚点をさらすものではない。


師の高度な知的活動の裏には、

口さきだけの利己的な知識人の非行動性は見られなかった。

そこにはただライ者への絶え間ない奉仕があるだけだった。

またこのライ者の友としての愛の活動の裏には、

偽善的な自己顕示の影はみじんも見られなかった。

そこにはただ日本の思想界に

カトリシズムの市民権を得させるための研学の熱誠があるだけだった。


そしてこの師の両面の活動の中軸となったものは、

常にキリスト教の信仰であった。

実に師にあっては、考えることと信ずることと行うこととは、

常に一つであった。

なぜならば、師が思索し、信仰し、行動することは

すべてただ一つの目標、すなわちキリストを愛し、

人を愛すということ以外にはなかったからである。

  岩下壮一一巻選集  

 

「知と愛と信仰」ドイツ文学者、上智大学教授 増田和宣(故)より 抜粋



2018年8月2日

2018年7月24日 (火)

№264. 司教叙階式ミサー大阪カテドラル聖マリア大聖堂

https://www.youtube.com/watch?v=NJZj6Ke1Id4

 

大阪カテドラル聖マリア大聖堂での叙階式ミサです
30分ぐらいしてからミサが行われます。
よろしかったらご覧ください。

 

****************

この夏の温度は、かつてないような異常さです。

この前の大阪北部の地震、それから豪雨の被害が起こり、

その後のこの温度の上昇。

何か地球が怒っているような、気配さえ感じます。


この日(16日)も高い温度の予想でした。

でも司教叙階の典礼ミサに与りたくて、夫と朝7時半に家をでました。

式は11時からですが、9時には開場なのです。

暑さにどれだけ耐えられるか、準備はしていったつもりですが。

2500人の参加の予想で、敷地内には400人ほど入れるテントも張られ、

すでに聖堂内の開場を待つ人たちでいっぱいでした。

様々な修道院から来ているシスターの服は、

シスターたちにとっては修行服でしょうが、

何か華やかな、いつもと違う雰囲気を与えていました。

黒、白、グレー、エンジ、色も形も様々です。




9時聖堂内へ・・・これからミサが始まるまで2時間もあるのです。

どういう理由かわかりませんが、

1000名以上は入れるステンドグラスの聖堂の窓ガラスは

一枚残らず閉められ、外気は入らない状態で、

クーラーは昔の建築なので無し。

大きな扇風機が隅に何台も置かれていましたが、

外気の入らない密封状態で1500人近い人の息、・・




体がもつかなと思いつつ、

けれど、地下には冷房の行き届いた大ホールがあったので、

そこでスクリーンで式を見る人たちも多くいました。

要するに、自分の体調に合わせて、

場所は選んでくださいということです。




ここは、かつての細川屋敷のあったところで、

ガラシャ夫人が火を放って最期を迎えた屋敷跡です。
大阪城は目の前です。

あの頃は、屋敷から大阪城が威圧的な形で見えたことでしょう。

聖堂の正面には日本式のマリアさまの絵と下の方の両側に

高山右近とガラシャの祈る姿が描かれた巨大な絵があります。

とても美しいです。

聖堂一杯に輝くステンドグラス、そして荘厳なパイプオルガンの音。

やはり、ミサはスクリーンでなく、実際に見たかったので、

暑さに何とか耐えながら、2時間半、参加できました。




伝統的なカトリックの叙階式ミサ。

私にとって初めての経験です。

やはり長い歴史に裏付けられた、

美しい所作を伴った祭儀だなと思いました。

前田万葉枢機卿のおはなし、司教補佐の任命、

200人近い司祭たちの姿、

そして100人以上のシスター、2000人ほどの一般信者。

壮観でした。




集まった人たちの祈りと歌、やはり心打たれます。

ヴァチカンからは、教皇大使がおいでになり、

ラテン語での任命のことばを宣言されました。

気温がもっと低ければ、気持ちが集中したかもしれません。

人に迷惑かけないように、

自分の身体を保つことに精神が集中して、ちょっと残念です。




司祭もシスターも正装でしたが、ごく普通のご様子で、

きっと暑さも寒さも訓練で、耐えられるようになっているのでしょう。

心構えがちがっている。

また普通の信徒も私よりもずっと年取ったような人も感極まったようすで、

超越しているような感じで、


新入りカトリックの私はまだまだ出来損ないだなと思ったことです。




とにかく慌てない、落ち着いている、礼儀正しい、文句いわない

カトリックの教育って、素晴らしい。

私も小さな子供のときから、こんな教育を受けていたら、

もう少しよくなっていたかも

 ミサが終わって席立って帰ろうとしたとき、隣の方が

「どうもありがとうございました。おかげで涼しかったです。」と言われて、

私はキョトン。

 

お礼の理由は、私が暑さを凌ごうと扇子でパタパタとやっていて、

その風が隣のご婦人にもいったということです。

ニコニコしながらの優しいお礼の言葉に

私は何と言っていいかまごまご。

やはり違いますね。




カトリックが体ごとなじんでいる方は。

私はまだまだ、というよりとんと修行が足りないです。

あのふんわりとした雰囲気はどうしたら出るのでしょうか。

良い経験でした。

帰り道路上の温度は39度になっていました。無事に帰りました。

 

2018年7月24日

 

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2018年7月15日 (日)

№263. 本、言葉の紹介 平和

ミサの中で、信者の間で必ずこの挨拶が行われます。

「主の平和」です。

カトリックに入りたての頃、これにはとまどいました。

皆さま、手を合わせて、両隣、前後の方々、

また周囲の方々に「主の平和」といって、会釈するのです。




この習慣にもきっと深い伝統的な意味があるのでしょう。

「キリストの平和があなたがたの中にありますように」という意味だと思って、

今は先ず私の内部にそして皆様の心の中に、

キリストの平和がありますようにと周囲の人に挨拶します。

皆さま、優しい微笑みを返してくださいます。

素晴らしい伝統だと思います。




夏は、特に日本の平和について考えさせられることが多いです。

沢田教授の著書の中の「平和」は、私の思いをすっきりさせてくれました。

縦の意味と横の意味、まるで十字架のようですが、

理性と信仰をもって理解することが大切であると自分に言い聞かせています。

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澤田昭夫著「見えないものを大切に」より、

「平和」

 使徒パウロが小アジアのガラテアに宛てた手紙に、

「平和は霊の実り」だとあります。

霊によって生きる人には、神から愛と平和が与えられるというのです。

キリスト自身、最後の晩餐の席で、「私があなたたちの平和を与える。

ただし、それはこの世が与えるような平和ではない」と申されました。


愛も平和も神の賜物、霊の実りだというのです。

しかし、「平和を生み出す人は幸いだ」ともあります。

つまり、平和は神の賜物であると同時に人間の業でもあります。

ところで、人間はどうして平和を生み出せるでしょうか。


第一次世界大戦に一時流行ったのは、

権力政治や国家利益を忘れれば平和が到来するという考えでした。

権力や武力はそれ自体が悪だから、軍縮を進めよう。

国家利益を越えた人類社会組織を作り、

国際紛争はそこでの話し合いで解決しよう。

そうすれば、平和な新社会秩序が生まれるという考えでした。


しかし、その考えは失敗し、第二次世界大戦が起こりました。

強制力、武力がないと、

どんな世界秩序も維持できないことが立証されました。

権力、武力はそれ自体が目的にされると、

社会の破滅を招きます。

しかし、強制力無しの社会は混乱、混沌を招きます。


英国の歴史家、軍事史家のマイケル・ハワードは、

国際問題の解決には水平と垂直の二つの次元が必要だと言います。

水平の次元とは権力、武力に関わる世俗政治の次元で、

これなしにはどんなに立派な人道的、倫理的政策も、

無責任な作文に終わる。

垂直の次元とは人権、人類愛、信義、法の支配など、

倫理的価値の次元で、

これがないと権力、武力が自己目的になる危険がある、というのです。


この倫理的次元をさらに宗教的に深めるのは、

他人のために命を捧げるほど大きな愛はないというキリストの教えや、

初めに申した、平和は霊の実り、という考えだと言えましょう。


「見えないものを大切に」澤田昭夫著より


2018年7月15日

 

 

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