日記・コラム・つぶやき

2020年1月21日 (火)

No.283 アウグスティヌス

Img1153_20200121140801 今日は、

 カトリックのペテロ文庫から発行されている、

 「教父」の中に書かれている

     アウグスティヌスについて、少し紹介します。

 

「教父」は、36人の教父の生涯と思想を考察したものですが、

一番上に燦然と輝くのは、大聖人アウグスティヌスです。

この「教父」は、名誉教皇ベネディクト世が教皇のとき、

2007年3月から2008年6月まで

水曜謁見の中で行った「教父」に関する連続講話をまとめたものです。

*ペテロ文庫発行 ベネディクト16世  日本カトリック司教協議会認可

 

***********

聖アウグスティヌス(1)より抜粋

 

今日はもっとも偉大なラテン教父である

聖アウグスティヌス(紀元354-430)についてお話しします。・・

この偉大な聖人・教会博士は、

キリスト教をまったく知らない人や、キリスト教をよく知らない人からも

その名前だけはよく知られています。

アウグスティヌスは西洋世界また全世界の文化生活に深い刻印を刻んだからです。・・・・

この偉大な精神は、文明の価値あるものを受け入れ、

その本質的な豊かさを高めるとともに、

そのあとの時代を培うことのできたさまざまな理念と方法を生み出しました。

パウロ6世も次のように強調する通りです。

「古代哲学全体がアウグスティヌスの著作に流れ込み、

アウグスティヌスの著作から、

続く諸世紀の教理の伝統全体に行き渡る思潮が発するといえます。」

 

さらに、アウグスティヌはきわめて多数の著作を残した教父です。・・

とくに、「告白」は、神を賛美するために書かれた、たぐいまれな霊的自伝です。

アウグスティヌのもっとも有名な著作でもあります。

アウグスティヌの「告白」は、

その内面性と心理への関心のゆえに、現代に至るまで、

非宗教的文学を含めた西洋と西洋以外の文学の独自のモデルになったといえます。

霊的生活、自己の神秘、自己のうちに隠された神の神秘への注目は、

前例を見ない特別なものであり、

これからもずっと、いわば霊的な「頂点」であります。

・・・・アウグスティヌは、

旧約聖書がイエス・キリストへと向かう旅路であることを理解しました。

アウグスティヌは旧約聖書の美しさと哲学的な深みを理解するための鍵を見出しました。

そして、歴史におけるキリストの神秘の独自性、

また、哲学すなわち合理性と、信仰が、「ロゴス」において、

すなわち肉となった永遠のみことばであるキリストにおいて統合されることを、

ことごとく悟りました。

・・・アウグスティヌは短期間のうちに聖書の比喩的な読み方を理解しました。・・

 

***********

これは(1)のみであり、(5) まであります。

興味のある方はアマゾンで手に入ります。よろしかったらお求めください。

私は、いろいろな思考や思想が飛び交い、混乱を極めるこの時代、

アウグスティヌスの本を読むと落ち着きます。

そして物事を冷静に判断できるようになり、生きる姿勢を教えられます。

 

アウグスティヌスの本に出合ったのは、

岩下壮一神父さまを知ったときからですので、2年前です。

ですから、私はこの道ではまったくの新参者です。

けれども、このアウグスティヌスの著作に出会わなかったら、

私は路頭に迷っていたでしょう。

 

聖書の読み方、そしてその深い意味は、

すばらしい指導者によらない限り、なかなか会得できないものです。

なぜなら、この神秘的な言葉は、

誰でもが容易にわからないように、深い真理は

覆い隠されている面が多いからです。

深い霊性と知性と祈りによってしか、

理解できないことも沢山あることをアウグスティヌは言っております。

聖書は自分勝手に解釈すると、

ときには真逆的な生き方になるときもあります。

 

2020年1月21日

2020年1月14日 (火)

No.282 私のブログは文字だらけ

Img0083_20200114143501 普通はブログを出しているというと、

身近なこと、

何か楽しそうなこと、

面白いことなど、

読んで下さる方に提供することが多いのですが、

私のブログは文章だけ、

それも小難しいことを書き並べたものであり、

これに付き合って下さる方は、

並々ならぬ忍耐心と好奇心と探求心をお持ちの方であると思います。

改めて、読者の皆様に有難く、感謝いたします。

 

私自身は、どんな分厚い本でも、読みたいものは完全に読みますし、

大変だと思ったことはなく、興味のある本であれば、

分厚いものであれはあるほど、喜びと楽しさが倍加されるのです。

 

でも今どき、それほど本が好きで、

時間をそれに当てている人は珍しいことだということは、よく承知しています。

けれども、文字人間である私は、

世界の古今の超有名な人生の教師たちから学ぶには、

本しかないのだと思うのです。

彼らはもうこの世には肉体としてはいないけれど、

彼らの霊魂は私たちと共にあり、

今もなお書物において語り、教えているからです。

その最高のものが聖書であると思います。

 

もちろん、アウグスチヌスも、ヒルデガルトも、

そしてトルストイもドストエフスキーもパスカルも・・・

彼らの霊魂は生きて今も語りかけています。

だから、私の周囲には様々な人の教えや、

またときには彼らの間違いも、養いの糧となるのです。

どんな偉人も多少の間違いはありますから。

 

神は理性であり、知性である。

そして文字は神の与えられしもの。

ただ、文字は神の与えらしものですが、悪魔もこれに通じています。

文字であれば何でもいいわけではありません。

良書は神から来るもの、悪書は悪から来て、人を悪への道に誘います。

良書は知らず知らずのうちに、精神を高みへと導き、豊かなものとしますが、

悪書は知らず知らずのうちに、精神を劣化させ、下降させていきます。

 

どんなものでも2つに分かれています。右手と左手のように。

2つの道に分かれています。

どちらに行くかは、各自の意志に任されています。

 

2020年1月14日

2020年1月 7日 (火)

No.281 老人の祝福

028_02 私の行っているカトリック教会では、

様々な集会がありますが、

その一つに「今日を楽しむ会」として、

60歳以上の方々が集まって、

ロザリオの祈りをしたり、

神父から「終活」のお話しを聞いたりしています。

 

「終活」というと、自分の死のための締めくくりの準備という考えが一般的ですが、

教会の「終活」は、もっぱら、魂、すなわち死後の魂のあり方の学びになります。

今生でよく働き、かなり疲れた体という衣服を脱いで、死の彼方に旅立つとき、

一番大事なのは、自分の行く先であろうと思いますが、

これにはカトリックといえども基本的には天国を目指しているのですが、

そのあり方、行程は現今の神学ではいろいろな見解があるようです。

 

それを集まった者たち(圧倒的に女性)は、

それぞれの意見を述べ、神父は皆の意見を聞きながら断定的には答えず、

それぞれの思考状態に任せています。

もちろん、神父としての神学上(?)の教えは言いますが。

 

今日も楽しみながら、この深遠な問題にたいして、

60代、70代、80代の年輩たちは、頭を駆使して、

考えをまとめて皆の前で述べました。

これは知力の訓練になりますよ。

私は必ずしも、神父と同じではありません。

集まった15、6人の人たちと同じでもありません。

私は私の尊敬すべき聖人の指針に教えられ、

よく考えながら自分なりの思想を組み立てていきますから。

それが許されるのは、カトリックのすばらしさだと思います。

上から一方的に押さえつけることはありません。

 

勉強が終わると、持参した昼食を楽しみながら、話に興じます。

またこれも楽しい時間です。

興が募ると神父も歌い出す。ギターを奏でながら。

神父は41歳の頭髪以外はハンサムな、音楽好きな明るいスペイン人。

どこまで理解できるか分からない日本語で、

自分の祖母に近い人たちとのやりとり。

でも、結構喜んで、年取った私たちを若返らせてくれました。

故郷アンダルシアへの想いを込めて、

ギターを弾き、歌い、ダンスまではありませんでしたが。

でも、スペインの家では、ママは踊ったとか。

 

いろいろな経歴の人たちの考えを聞きながら、とても参考になります。

若いときから働いてきた人が多いです。

私よりもはるかにしっかりしていて、教えられます。

ただし、出席者で夫婦でというのは、私たちだけです。

これは、自慢(?)ですかね?

 

年取って時間も与えられ、このように単なる趣味の会ではなく、

人生の深遠なることを話し合えることは、

まさに神の祝福であると心から感謝したことです。

 

若き神父に祝福を! 

そして天国への同行者である、老人仲間に祝福を!

 

2020年1月7日

 

 

2020年1月 1日 (水)

No.280 私の元旦ミサ

011_05 日本人の多くは、元旦には初詣に行くでしょうが、

私は教会へ行きます。

晴れた清々しい日、年の初めはやはり、

何か素晴らしいことが待っているのではないかと期待し、

希望を持って進もうという気持ちになります。

 

教会の9時からのミサは英語のみ、11時からは日本語のみですが、

夫が英語ミサを見てみようというので、早く行くことにしました。

英語ミサは半分くらいは終わっていましたが、

元旦そうそう来ている外国の方は、500名ほど。

英語のミサが終わって聖堂から出て来た顔見知りの人の中に、

この前の20日のパーティで知り合ったナイジェリアの方がいて、

Happy New Year」と言って握手をしてくれました。

こちらも慣れぬ英語で「Happy New Year」です。

前身黒で決めたかっこいいファションでしたが、アパレル関係の仕事をしているとのこと。

カメルーンの友達は今日は来ませんでした。

私の教会は、とにかくいろいろな国の人が来ます。びっくりします。

 

マリリンがにっこりして、「あめでとう」と言ってくれ、

私が「あなたにとって良い年でありますように」と言うと、

彼女は首を横に振って、「ううん、みんながハッピーになるように」と何度も言いました。

みんながハッピーになるように・・・

彼女は50代で日本人の夫を亡くした未亡人で、一人で暮らしています。

その彼女が、みんながハッピーにならなければいけないというのです。

彼女の手を握っていると、彼女の温かい血が伝わって来るようでした。

 

またこんなことがありました。

この間まで、ミサの最中、何度も車いすごと倒れた若い青年。

彼はてんかんの持病をかかえ、いつ発作が起きるか絶えず不安の中にいるのです。

また薬の副作用で、その影響も出ています。

その彼が29日、突然立ち上がり、立ったままミサに与りました。

あれほど弱っていたのに。

後で聞くと「聖霊が立ち上れ」と言ったのだそうです。

そうして今日も倒れたときに頭を打たないために枕をかかえ、

細心の準備をしてミサに臨んだのですが、彼は立っていました。

夫が後で聞くと、「マリア様が助けてくれた」と言ったそうです。

 

今日もいろいろなことを神様は見せてくださいました。

「神よ、あわれみと祝福をわたしたちに。

 あなたの顔の光をわたしたちの上に照らしてください。

 あなたのわざが世界に知られ、

 救いがすべての国に知られるように。

 詩篇67:2-3

 

このブログを読んで下さる皆さまに

Happy New YearI pray to you for the grace of God.

 

2020年1月1日

2019年12月28日 (土)

No. 279 おめでとう。平和あれ!

Img0288 (カトリック教会では降誕祭は終わっても、

クリスマスの喜びは、来年の一月6日頃まで続きます)

 

聖堂の中に、次々と人が入ってきます。

今日はクリスマスイヴ、通常のミサに来ない人、来れない人も今日は特別です。

普段の2倍近い信者たちがお祝いに来ます。

これでも、日本語と英語のミサは分かれているので、

両方の数からすると、800~900名になるかもしれません。

年々、外国の方が増えています。国籍も様々、人種も様々、

 

ミサを執り行うスペインの若い神父さま。

どんなに働いても疲れをしらない年代、お顔を見ているだけでも、

若いエネルギーが注入されるようです。

 

聖堂内の灯をすべて消して、それぞれがローソクを持って、歌うとき、

私はいつも遠い昔を思い出します。

地方の町の小さな教会で、親にやっとの思いで許可を得て教会のクリスマスに参加して、

あの明るい雰囲気の中で、「おめでとう、おめでとう」と言い合うとき、

私は全身に喜びと悲しみが交差するのを感じました。

自由に教会に来れない。その辛さは自由に通える人にはわかりません。

私は教会が大好きでした。

 

あのときのあの悲しみが思い出され、今の私の環境がまるで嘘のように思われます。

そして夫婦で共に集うことができます。

今日来ている人の中にも、家族に気兼ねしながら来ている人もいます。

病人をかかえている人もいます。

本人が病に、あるいはどうしようもない状況のもとで、

クリスマスのお祝いもできない人はいます。

今、集っている人の感謝と思いが主の降誕に向けられ、

そこにおいて一つになる、これこそ奇蹟です。

***********

 

次の日(25日)は、インターナショナルクリスマス、

日本人中心ではなく、外国の人と共にお祝いする日です。

日本語、英語、スペイン語が話され、祈られ、歌われました。

今日も20~30ヵ国の人たちが来ています。

これもまた、素晴らしいひと時です。

25日のクリスマスは今年は平日で、働く人は来るのは難しいはずですが、

500人~600人は集まりました。

三分の二は外国の方です。

外国のカトリック教徒は、私のように未熟なカトリックではなく、

生まれたときからの人が多いので、クリスマスを本当に聖なる日として大事にします。

前もって休暇をとって、ミサに参列するのでしょう。

 

人種を超えて、集まり、歌い、祈るとき、同じ信仰のもとに、一つとなって溶け合い、

これこそ奇蹟のように思われます。

お互い言語もわからない同志が、共に祈り、賛美し、ミサに与る。信じられないようなことです。

そして、「メリークリスマス!」・・・心からの「メリークリスマス」

 

神の平和が世界中に行われ、すべての国が国境を越えて、

一つの神の礼拝において一つにまとめられるという、新たな普遍性です。・・・

すべての民族は、神の家に集まり来り、唯一の神である主に礼拝を捧げる未来の姿・・

「ナザレのイエス2」名誉教皇ベネディクト16世 春秋社発行より

 

2019年12月28日

 

2019年12月24日 (火)

No.278 降誕

Img0117 私の敬愛する、名誉教皇ベネディクト16世の著書「ナザレのイエス」より、

降誕に関することを取り出して見ました。

イエス・キリストの降誕についてキリスト教信仰あるなしに関わらず、

少し考えてみるのもよろしいかと思います。

俗世に浸かった私たちのハートが、聖なるものに触れるとき、

普段味わうことない根源的な喜びが湧き起って来るかもしれません。

春秋社発行「ナザレのイエス:プロローグ降誕」

 

マタイによる福音書、ルカによる福音書よりの講話を参考にして

 

マタイによる福音書は、イエスの誕生の物語において、ヨセフはイエスの父ではないこと、

ヨセフはマリアが姦通(ヨセフとマリアは婚約していた)したと誤解し、

ひそかにマリアを離縁しようとしたと記しています。

そこでヨセフに夢で告げられたことは、

「ダビデの子ヨセフ、おそれずに妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」

マタイによる福音書1:20ということでした。

 

この言葉によって、マリアの子は男によるものではなく、

聖霊によってなった新しい創造なのです。

ヨセフは、イエスの法的な父親です。

けれども、マリアの子は、「上から」、神のもとから来るのです。

神のみが本来の意味でのイエスの「父」なのです。

このマリアにおいての新しい創造において、人類は新たに始まるのです。

 

イエスの起源?は、イエスは「どこから?」は、

イエスは「始め」そのものであり、すべてのもの(宇宙万物)がそこに根拠を持つ始原であり、

世界を秩序あるコスモスとする「光」なのです。

彼(イエス)は、神から来たのです。

彼は神です。

わたしたちのところに来られたこの始めは、始めそのものであり、

そのようなものとして人間存在の新たなあり方を開くのです。

「彼を受け入れた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた。

彼の名を信じるすべての人たち、血によらず、肉の欲によらず、

人の欲によらず、神から生まれた者たちには、彼は、神の子となる力を与えた」

(ヨハネによる福音書1:12-13)

この文章は、マリアの処女懐胎とイエスの出生を示唆しています。

 

イエスを信じる者たちは、信仰によって、

イエス個人の新しい起源、根源の中へと入っていくのであり、

この起源、根源を自分のものとして受けいれるのです。

俗世から生まれた者たちも、この信仰によって新しく生まれ、

彼らは、イエス・キリストの血統の中へと入っていき、

それが彼ら自身の固有の血統となるのです。(神の子となる)

キリストにより、キリストへの信仰により、彼らは今や神から生まれたものとなるのです。

 

イエスがヨセフから生まれたのではなく、真実、聖霊により、

処女マリアから生まれたと同じように、私たちの真の血統はイエスへの信仰であり、

私たちに新たな起源、根源を与えるものです。

この「神から」から生まれた者とする信仰をもつものがキリスト者なのです。

という少し難しい話になりましたが、降誕はこの「神の子」が生まれたということです。

全人類の祖であるアダムから発して、全地に散っていったすべての民族、すべての言語、そうです、

降誕は、アダムから発する全人類をご自身のうちに再び集められたことを示しています。

 

降誕祭であるクリスマスは、実に大きな意味があるのだということ、

それは私たち一人一人の新たな誕生も意味しているのだということを共に考えたいと思ってこれを書きました。

(私はカトリック教徒であり、この信仰に生きています)

 

*神とは手の平に乗るような人の造ったものではなく、

また太陽や月、星、山、さらには人間でもなく、すべての上に存在する全宇宙の創造者であり、

見えるもの、見えないもの、人間の魂、霊、すべてのものの支配者であります。

測り知れない神秘であり、測り知れない根源的存在です。

私はそのように、理解し、信じています。

 

2019年12月24日

2019年12月17日 (火)

No.277 サンタクロースの真の意味

Img0128 クリスマスは英語の「Christmas」ですが、

これは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味です。

 

私は恥ずかしいことですけれど、

クリスマスという言葉がキリストのミサであるということをカトリック入門講座で、

神父さまによって教えられ、初めて知りました。

10代の頃からキリスト教(プロテスタント)に入りながら、

つい4年前までクリスマスの言葉の意味を知らなかったのです。

殆どのプロテスタントは決してカトリックのことを受け入れません。

由来や継承が殆どカトリックからであるのに、

プライド(?)にかけて、肯定することは難しいようです。

マスはミサ、すなわちカトリックのミサのことです。

ましてや、サンタクロースなんて、聖書にも書いてないし、

私はその由来も知りませんでした。

 

そして、世界中で、商魂も含めて「クリスマス」、

つまりその日にくっつけられたサンタクロースがどうしてこんなに広がったかといいますと、

それもカトリックの聖人ニコラオ司教の愛の行為からなのです。

私は偉そうに説明していますけれど、これもつい最近知ったことです。

何ということでしょう。

 

簡単に説明しますと、聖ニコラオは、

西暦270年に小アジア(今のトルコ)に富裕な信心深い両親のもとに生まれ、

知恵と善徳に優れた人でした。

受け継いだ莫大な財産を貧しい人たちに捧げたのです。

貧しい靴屋の3人娘のためにそっと結婚資金を出したり、貧しい地方の飢饉を救ったり、

難船した船の船員を助けたり、無実の死刑囚を助けたり、職業を問わず、

老若男女問わず、また異邦人も問わず、あらゆる人に救いの手を差し伸べました。

 

そして、12世紀から数世紀にわたって、

聖ニコラオの祝日はスイス、フランス、ドイツ、オランダなどで、子供の日となり、

かつて聖ニコラオがお金を窓に投げいれ、3人の娘を救った話がもとになって、

聖ニコラオの祝日の前夜に子供へそっとプレゼントする習慣ができました。

12月の5日の晩、子供は小船か靴を用意し、靴下を窓際にかけておいたりしたようです。

そして聖ニコラオが夜通るとき、お菓子と贈り物をいれてくれると信じたのです。

 

そうして宗教改革の頃から、プロテスタントの地方で、

この優しい聖ニコラオの訪問を廃止して、贈り物を入れた袋を背負い、

司教服になぞらえた赤服、赤ずきんで長靴をはいた髭のおじいさんの形に変え、

それをクリスマスと結びつけてしまいました。

名前も聖ニコラオをオランダなまりの「サンタ・クロース」と呼びました。

 

そして、18世紀、「サンタ・クロース」は英国にもわたり、

煙突から入って、靴や靴下にプレゼントを入れることになりました。

さらにこの習慣は、北欧に伝わり、「サンタ・クロース」はクリスマスの夜、

トナカイのそりに乗って天からおりて、

子供達のところへプレゼントを配りに行くこととなったのです。

そしてこの慣習は米国に広がり、他の国にも伝わりました。

もちろん、日本にも。

そうして、現在見られるクリスマスの情景になりました。

 

クリスマスこそ儲けようとお客を呼び込むために、

歓楽街にも、ケーキ屋にも、おもちゃ屋にも、きらきらと輝くツリーが飾られている。

クリスマスのテーマソングも流して。

それがもう年中行事になり、クリスマスとは、楽しむ日のようになりました。

 

聖ニコラオが生まれてから、1200年ほどは、

きっちりと聖人として尊敬され、その遺徳は正しく伝えられていました。

私はサンクロースとされた聖ニコラオの本当の姿と美しい愛をちょっと考え、

本来の聖ニコラオの偲んでみたいと思いました。

小さなことでもいいから、誰かのために、そっと良いことをしたいなあ・・と。

贈り物を貰うことも嬉しいけれど、何か良いことを聖ニコラオのように、人知れずそっとする。

これが一番サンタに相応しいことではと思ったりします。

 

本来はサンタクロース(聖ニコラオ)はクリスマスとは関係はありませんでしたが、

いっしょになってしまったからには、

今年のクリスマスは何か一つ良いことをしてみたいと思います。

聖ニコラオのように、人知れず・・・それはいったい何でしょう。

 

2019年12月17日

2019年12月10日 (火)

No.276 私の見習いたい人

Img0104-1 見習いたい人は、いつでも同じ信仰を共にする人たちとは限りません。

素敵な生き方をしている人は、私の身近にも沢山いらっしゃいます。

 

先月私は3週間ばかり、インフルエンザではないけれど、

少ししつこい風邪を引いて、かなり苦戦をしました。

一番ひどいとき、息ができなくて、窒息寸前になりそうで、

「主よ、助けてください。マリア様、助けてください」とお願いしました。

私は頑固な性格なので、自分の体の苦痛や不具合に対して

あまり神様に助けをお願いしないのです。

何か申し訳ないような気がするのか、自力でできることは自力でと思ってしまうのです。

本当は自力でしていると思っていることは、すべて神様の助けであることはわかっていますが。

でも、風邪も3週間で治り、ようやく正常になりました。(私は薬アレルギー)

 

私と同じ自力専門の方がいるんです。Sさんです。

その見習いたいという人は、私の住んでいるマンションの方で、

お独りになられてから、もうかなりになります。

「お歳は!」と聞いたら、「女性に歳を聞くのは失礼よ」と言われました。

こればかりは理解できません。

なぜ女性に歳を聞くのがいけないのか、聞かなければ騙されたり、間違えてしまいます。

特に男性をごまかすためかと思ったりしますが。

まあ、それはさておいて、だいたい、Sさんの歳はわかります。

五木寛之より少し上ですから。ということは、御歳88歳ということです。

 

Sさんは、ごく普通の女性です。

「病院には一切行きません。薬は飲みません。健康診断など、やったことはありません。

血圧を毎日計るだけです。一日一回は必ず外出する。食事は果物、野菜が中心。

あとは、会話する人もいない(子供はいない)ので、仏壇の夫と話します。

日常の生活は規則正しくします。それだけです。本が大好きで、毎日本を読みます。

他は何も特別なことはしていません。」ということです。

ただ、何もかも一人でしないといけないので、結構忙しいのだそうです。

 

Sさんは、メガネもなし、歩く速度も私の2倍は速い。

スーパーで買い物をしているSさんに声をかけ、しばらく話すが、

やはり耳が少し遠いのか、声がちょっと大きくなるが、それ以外は頭はしゃきしゃき。

「声をかけてくれて、有難う。話せて嬉しい」ということでした。

Sさんは、私のこれからの生き方の模範です」と心から思っているので、そう言うと、

「御主人を大切にね。できるだけ長くご一緒にね。」と。

 

アウグスティヌスの言葉を思い出します。

「人を助けたりすることは、大切なことだし、常に心がけることは大事だけれど、

私自身は、自分で自分を助ける。人を頼らないで、できるだけ自分でやる。」と。

 

「神は自ら助くるものを助く」イギリスのことわざ

God helps those who help themselves.

意味:神は自分自身で努力する人に手を差しのべる。

人に頼ろうとする前に、先ず、自助努力をしなさい。

 

自力という意志力も、実は神から与えられた力なのです。

けれども、その意志力を使って

自ら努力しようとするものを神は助けて下さるのです・・ということだと思います。

 

2019年12月10日

 

2019年12月 3日 (火)

No.275東京ドーム5万人ミサ

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東京ドームミサです

 

Img0103 巨大なドームの下に密集した大勢の人、人、

遠くにいる人たちの顔などは、全くわからない。

この会場の中に入って30分以上たちました。・・・

次第、次第に小旗を持った人たちがそわそわと動き出す。

少しづつ、少しづつ、そして旗がちぎれんばかりに振られる。

5万人の人たちが同じ方向を一斉に見る。

その先に見えた・・ニュースでもよく見る教皇の特別オープンカーが、

そしてあの白い祭服を着た教皇が車の上で満面の笑顔で、

手を振りながら、ゆっくりと広いドームの中を動いている。

ときどき、子供たちを抱き上げ、キスをしながら。

祝福を与えながら、

打ち振る旗は休みなく、みな教皇の姿に大勢の視線は集注している。

約15分間。

 

この時、5万人全員がまるで一つになったかのように見え、こんなこともあり得るのだと感動しました。

もちろん、日本人カトリック教徒が一番多かったでしょうが、

何十か国もの人々が一つになったということに、一つの希望のもとに、

一つの信じるもののゆえに、一つになった(そう思えた)・・これは素晴らしい体験でした。

 

肌の色は様々、体つきも様々、年齢も赤子から老人まで、

その後ミサは1時間以上もありましたが、

この15分間ほど全員が一つ思いになったような気がした時はありませんでした。

天国とは、このようなところではないかと思いました。

2000年前、イエスを求めて、群衆が何千人も集まったと聖書にありますが、

そのときの有様が目に浮かぶようでした。

 

けれども、このドームに入るまでの警察の方々のご尽力。

その働きはすごいものでした。

まるで警察の方々に保護されているような、監視されているような、国をあげての警護でした。

拳銃をもった警察官が、どんな不信なものも見逃さないという決意のもとに、

本当に見事な働きでした。

身分証明書の提示、ボデイ検査は当たり前。

それだけは、2000年前のイエスさまのときとは、ちがいます。

イエス・キリストを守るものは、いませんでした。

 

スーパーカリスマ教皇さまの人気に触れながら、

ふとこの場所にイエスが立っておられたら、

私たちは気づくだろうかと変わり者の私は思いました。

ひょっとしたら、イエスさまは、隅の方に押しやられ、

誰にも気づかれないでそっと立っておられたのではないでしょうか。

*********

 

私には忘れられない一人の神父がいます。

私が39歳のとき、今から37年前、お別れしたU神父です。

私はカトリックの教会に一人で行っていて、公教要理を学んでいました。

一対一で教えてくださったのです。

そしてその途中半ばで、U神父は移動になり、

そのままお会いすることもなく、私もカトリックから離れました。

けれども、私は4年前、私だけでなく夫と公教要理を学んで、カトリックの洗礼を受けたのです。

U神父からの学びを別の神父によって学び、37年前からの空白が埋められたのです。

 

そのU神父にこの大ミサの後で、ホテルの夕食のとき、隣り合わせになりました。

U神父は大勢の中の一人に過ぎない私のことを覚えてはおられませんが、私にはすぐにわかりました。

お歳は80歳で、何度もの手術をした、あまり健康ではないなあと感じられる青い顔でした。

私は自分のことを説明しました。

そして感謝し、報告しました。

37年前のあのときの私は夫とカトリックに入りましたと。

 

今のカトリックは私の求めるカトリックとはかなり違います。

それでも私がカトリック教会を愛して通うのは、その根底にある柱は不変だからです。

2000年間、決して変わらない柱がある。

それをしっかり見て、理解し、握り締めて行くこと。

ときにはその柱は覆われて全く見えなくなりそう。

でもそれは存在します。

私の目がしっかりすればするほど、見えてきます。

輝くような美しい姿で・・・・

そして、このU神父も同じでした。とても、嬉しかった。

だから私は忘れることができなかったのです。

 

5万人ミサは、終わりました。

5万人にとって、またそれぞれのところへ帰ります。

同じ日の連続となるのか、新しい日となるのか、わかりません。

フランシスコ教皇さまのメッセージには、天に向かう希望はありませんでした。

 

2019年12月3日

 

2019年11月24日 (日)

No.274 死はある日突然に

死はある日突然に

 

018_07 「ねえ、Hさんのこと知っている?」と買い物で出会ったKさん。

「いいえ、この頃会わないので、どうしたのかなと思っている」と私。

Hさん、亡くなったそうよ。」Kさん。

あまりのことに、何の実感もわかないまま、信じられないまま、・・・

一か月ほど前に彼女に会いましたが気になることはありました。

言葉がうまく出てこないで、何かうやむやと言っている感じでした。

 

Hさんは、ご主人を亡くして、約20年。

社交ダンスもしているので、姿勢のすごくいい人で、

すらりとした体は、後ろから見ると60代くらいでした。

彼女の実年齢は、80歳です。

そもそも、彼女自身が死ぬとは思っていなかったのではないでしょうか。

 

私のマンションで突然死は多いです。

もちろん、70代、80代の人です。

ということは、私にもある日、突然に死がやってくるということもあります。

災害や事故による死もこのような突然死になるでしょう。

 

人は死ぬ瞬間、何を思うのでしょうか。

いろいろ偉い方々がお書きになっていますが、書いた方は死を経験なさってはいません。

ただ、病院や施設で看取る人は、その当の人の死にゆく姿を見て

眠るようにとか、苦痛もなく、安らかだったとか言われるかもしれませんが、

私はその人の深奥にある本体である霊魂がどうであったのかを考えてしまいます。

外側の肉体を動かしているのは、その人の霊魂です。

身体は霊魂が体から離れると、ちょうど風船から空気が抜け出てしまうと、

しわしわになってしまうように、また脱ぎ捨てられた衣類のようになってしまいます。

 

「Hさん あなたは、どこへ行ったのですか?」

肉体のあり方ではなく、其の方の本体です。肉体がその人の本体ではありません。

Hさんは、どこへ行ったのですか?」

 

数年前に亡くなられた渡部先生(カトリック)が、

息子さんに「大丈夫だ。死ぬことは何の心配もない」といわれたそうですが、

先生は日ごろから死に対して、準備をしておられたから、そのように言われたのだと思います。

ご自分がどこに行こうとしているかをよくご存じだったのです。

この私のブログの記事№236に、

渡部昇一先生のことを少し書きましたので、読んでくださったら嬉しいです。 

死んでからの自分の行くところを、学んでみるのも有意義なことだと思います。

 

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アウグスチヌス「神の国5」第21巻第3章より

(概略)

魂は神なしには、生きることはできません。

魂が現存することによって身体は生き、支配され、苦痛を感じることができます。

身体のものだと思われている苦痛は、魂に属しています。

身体が傷つけられた場所で、苦痛を感じる場合、

苦痛の原因は身体であっても、苦痛を感じるのは魂です。

 

聖書ルカによる福音書16:23-24の中で、

金持ちが「わたしはこの火炎で苦しんでいます」といったとき

彼は陰府(よみ)で苦痛を感じていたのです。

だから、身体の死は苦痛の解放とはなりません。

 

苦痛を感じるのは、魂です。

そして魂は死にません。

ゆえに、アウグスティヌスが言うことは、身体が死んでもすべての苦痛は消えないということであり、

人によっては、魂の苦痛は永遠に続くということです。

魂は神によって作られました。

やはり自分を造られた創造主(神)とのかかわり方が、

永遠に続く苦痛となるのかならないのかの分かれ道ではないでしょうか。

これもまた、神によって与えられた各自の自由意志によって選びとることですが、

 

Hさん、あなたはどこにいますか?」

 

2019年11月24日

 

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