日記・コラム・つぶやき

2017年7月13日 (木)

蓮の花

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暑い日でしたが、蓮の花を見に万博公園に行きました。
最高に美しい花々が慎ましい姿で咲いていました。
気品と謙虚とそして何よりも浄化された精神を感じさせます。


最近私は「あるヨギの自叙伝」パラマハンサ・ヨガナンダ著を読んでいますが、
その中に蓮の花について、このような記述がありました。


「蓮の花は、インドにおいては昔から神性の象徴とされている。
その花びらが開いてゆくありさまは魂の広がりを示唆し、
泥の中から生長して、しかも清純な美しさを保つ姿は、
永遠不変の愛を約束する神の霊を表すものとされている。」


本当にその通りで、心が洗い清められるようです。


パラマハンサ・ヨガナンダの本をもう一冊紹介します。
「パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」スワミ・クリヤナンダ記述。三雅出版

この本によって、諸々の宗教の意味、
特にイエス・キリストの真の意味がようやくわかりました。
不思議ですね。
インドの聖者に教えられました。
教会とか、イエス・キリストとか、よくわからなくて、
悩んでいる人があったらおすすめします。
生きる意味について、これほど明確に言った人はいません。
私の心の師です。


このブログはしばらく休みます。
魂の旅に出ます。
それは私の内奥にあるという神への道にむかって・・・です。


2017年7月13日

2017年7月 5日 (水)

父の思い出2

人生の終わりに近くなってみると、
自分の人生で出会った様々な出来事は
すべて益になったのだとわかります。
どんなことでもです。
すべてがその人にとって、成長になるため必要なことだったのです。
よく人生行路を完了させるために、
人間の一人一人には誕生したときから守護者がついているといわれますが、
本当にその通りだと思います。

*********

農協の運輸の部門で次長までやっていて、多くの部下からも慕われ、
それなりに生活も安定していましたが、
養父は農協の運輸部門が無くなることにより、職を失ったのでした。
頭を下げることも、自分より能力のない上司のもとで働く気もなく、
生活のために慣れていた運送業の仕事を始めたのでしたが・・・(44歳)
資本も何もない、全くゼロからの出発でした。
普通の家が仕事場となったのでした。


その頃は日本が貧乏だった時期から徐々に上り調子になり、
国富も増し、オリンピックに向けて更なる前進に向かう時でした。
(60年前からのことです)
大きな団体組織を背景にしていた運輸の仕事と、
資金も何もない個人の仕事の大変さは今も昔も変わりありません。
商売とはお客様あってのことで、頭を低くする必要があるのです。
養父の場合いわゆる武士の商法でした。
よくケンカしてました。
やっと来てくれた運転手や助手とも。
どれだけの人が出入りしたことか。


収益のことを考えて、養父は夜間長距離輸送に踏み切りました。
地方と大阪間の物資輸送です。
今も夜大型のトラックが人の寝ている時間走っていますが、
その60年前は、今のように設備の整ったトラックではありません。
運転手も雇い主も日々戦いの連続でした。
小さな運送会社に来てくれる人は、よほど困った人間か世の中から外れた人間か、
農業や漁業の空いている時に来てくれるかの人たちで、
年中人探しの状態でした。


私が13歳から23歳で家を出るまでの10年間で、
普段はおめにかかれないような人たちが集まってきました。
その日から仕事にありつけるからです。
我が家はまるで人間のるつぼのような感じでした。
その当時のことを今では私にはよい勉強期間であったと懐かしささえ感じます。
まるで小説の中でしかお目にかかれないような出来事が次から次へと・・・
運転手、またトラックの助手の仕事をしてくれた人たちは様々でした。
一人一人の物語を思い出すと小さな小説が書けるほどに、
豊かなものですが、書ききれません。
私は10代の多感な、一番難しい年代に、
別の次元から来たような人たちを見る機会が与えられたようです。


世の中の矛盾が噴き出し、その問題のたまり場に人間が集まったような。・・
おそらくは聖書に出てくる、イエスを取り巻いた人々とも共通する小さきものたち、
迷える子羊のようなものであったかもしれません。
またドストエフスキーの世界に出てくる人たちとも共通するような・・
実の父の元では決して体験できない、人生のある一時期でした。
でも、私は知っています。
根が純真な人が多かった。
荒々しい人もいるけれど、
これほどの善人はいないというような、そんな人も・・


***********

いくつかのエピソードを思い出しつつ書き留めていきます。

「従業員人間模様」

深夜長距離輸送は60年前は運転手にとって過酷なものでした。
時間厳守で荷物を届けなければならないのです。
送り出す方も必死です。
間に合わなかったらもう仕事はこなくなるかもしれません。
運転手たちの多くは胃痛をかかえていました。
そして眠気と疲労と慰めのためについつい酒に手を伸ばし、
大事故へつながることも多々ありました。
飲酒運転は今も昔も処罰対象です。
信頼していた運転手が夜出発して、朝遺体となって帰ってきたこともあります。
それはどうしてだったか忘れました。


また妻のある口軽助手(それが災いしてか)が、
子供も生まれようとしているのに、朝死体となって帰ってきました。
他所の車とトラブルになって、殺されたとのうわさでした。
彼の妻は他県の人でしたが、大きなお腹をかかえて帰っていきました。
今もあの状況を思い出します。
本当にドストエフスキーの世界です。
ただ高学歴のニヒリストは1、2名を除いてはいませんでした。


またよ
く働く若者が来てくれて、とても助かっていました。
けれどかれはときどき定期的に休むのです。
そのうちその理由がわかりました。
刑務所に入って保釈され、ときどき近況報告をする義務があったのです。
ところが黙って来なくなってしまいました。
そのうち、様子がわかりました。
また何かコソ泥して捕まったというのです。
もう習慣化しているとしかいえません。
気がきいて、よく働く若者だったので、養父も残念がっていました。


ある日、得体の知れない
がっしりした大きな男が働きたいといってきました。
何か背景に普通ではない気配がありましたが、頑丈そうだし、
人手はほしいので雇いましたが、
さすがに養父は見抜いていたのか注意はしていました。
しばらくは何事もなく働きましたが、他の従業員のこそこそ話に、
彼は重大な事件を起こし、どうも入っていたみたいということでした。
その男、夜中に「金を貸せ。今からいくから」と電話か何かあり、
養父はさすがにどうしようかと考えたようでした。


養母と私と犬を二階に部屋に行かせ、階段の上り場にバリケードを築き、
ガラスを割って階段を上がってきたら、闘うつもりだったようです。
あるいは日本刀でやってしまったかもしれません。
男は酒を飲みながらやってきて階下のガラス戸をガタガタさせていましたが、
やがて引き返したようです。
あのときは、どうなるかと息をころしていました。
愛犬だけが忠実に吠えていました。
このような生活が珍しいことではなく、度々繰り返されたのです。


私は強くなりました。強いというより、冷めた人間になりました。
この世の生活に対して、希望どころか冷めていきました。
私にとって読書の世界が現実であり、
他は見ても、無感動な非現実世界のような感覚になっていきました。
トルストイとドストエフスキーの世界にのめりこみ、
特にトルストイのキリスト教に憧れを抱きはじめました。



2017年7月5日

2017年6月27日 (火)

父(養父)の思い出1

父の日はどうして決まったのかわかりませんが、
やはり店の売り場に「父の日」と書かれていると
懐かしい顔が思い出されてきます。
私は父というとき、
どうしても実父と養父を区別して話さないわけにはいきません。


稀な環境で育ったので、説明しなければ人にはわからないのです。
実父と養父(私の家)とはバスで20分、
車で10分余で行ける距離に住んでいました。
実の父は私の家に時々来ました。
養父はその度に固くなっていました。
私も2~3か月ごとに姉や実父に会いに本家に行っていました。
(行かされました)それが親同志間での暗黙の了解であり、
特に養父が果たさなければならない義務のようになっていました。


実の父だと知りながら、私は何も知らないのだという顔をし続けた私。
すべてを知りながら一切顔には出さず、心に秘めたまま。
夫にも私の子供たちにも何も語らなかった私。
それだけ触れてはならない秘密として、
また私自身決して許されないことだとして・・・・
けれども養父母の前以外では、
私は○○さんの子供であるいうことで通っていました。
学校の先生たちも実父の名前を知っていたし、
校長さん達は実父の友人でもあったので、
養母は担任の先生に話していたのでした。(養父に内緒で)
ある先生は私を旧姓で読んでいました。


実父と養父はすべてが真逆でした。
育ちも教養も人格も・・そして背が高いのと低いのと、
しかし両親とも頭脳は抜群。
養父は家の貧しさのため旧制中学に入れる頭を持ちながら
あきらめ軍隊にはいりました。
それこそ実力によって戦傷で
一戦を退くまでには准尉になっていました。


実父と養父の違いはここには書きません。
ただ養母である叔母は
「私は士族の出です」と言い続けた気位の高い人であり、
「そんなことはない」と兄である実父は否定しながら、
我家は南北朝の頃に落ち延びてきた
由緒ある一族の家系に連なるものというほど、
まあ家系にこだわりを持っていた人です。
個人よりもお家大事の人でした。・・(真偽は調べなければ)


戦後教育を受けた私にはどうでもいいこと、
見下げられている養父が可哀そうだと思ったことたびたび・・・
といいながらも、気位の高さだけは遺伝子として受け継いだ馬鹿な私・・・
そんな養父が唯一誰にも負けないと自負していたのが、体力でした。
しかし頭は実に切れる人でした。
養父の身内はみな一流大学を出ているから、
よくできる血筋であろうと思います。
養父は悔しかったのでしょう。
学校の先生が親に養父を中学(旧制)に行かせるようにと頼みに来たそうです。
この話は何度も何度も言いました。
あの頭脳では許されていたら、最高学府にも行けたと誰もが認めました。
けれどもそのような工面はできず(小作人)、
長男である養父は軍隊に入ったのです。
あの当時、中学はかなりのお金が必要でした。


実父は地主、養父は小作人の家(養父の関係した地主は実父とは無関係)・・
戦後は逆転しました。
米国によって農地解放が行われ、
苦労の連続であった小作の方々の多くは土地持ちになりました。
私は両方の世界を見て大きくなりました。複雑です。


*******

養父の逸話というか武勇伝は思い出してもかなりあります。
そのいくつかを書いて、父の日の印としましょう。
私は養父と一緒に出掛けることは嫌いでしたが、
養父は私をどこへでも連れていきたがりました。
何か起こるというより、養父が何かを起こすのです。
感情のコントロールが難しいのです。


ある日、町をあげてイベントがあり、
私は養父と2人で道路わきで見ていましたが、
巡査の対応が養父の気にいらなかったと見えて、
巡査に食ってかかりました。
手をあげかけたかどうかは覚えていませんが、
もうすぐ逮捕されそうでした。
私は大声をあげてやめてと叫び、半泣きだった思います。
巡査さんは、許してくれましたけれど。


またある日、養父は口から血を出して家に帰りました。
歯は折れているようです。
歩いていると男が女を殴っているので、女の人を助けようとしたら、
男に殴られたらしいのです。
あとで聞くとそれは夫婦喧嘩のようでした。
まあ、夫婦喧嘩も危ないことになりますけれど。


ある秋、町内会の運動会。
走り競争がありました。
100メートルでしたか。やはり私も行っていました。
若い人たちが沢山でている競争です。
養父は急に「出る」といいました。
父は傷痍軍人です。片方の足は短いのです。
私は必死に止めました。
養父は46歳くらいです。・・・言い出したら聞きません。
走りました。
昔、誰よりも早く走った記憶が蘇ったのでしょう。・・走りました。
・・・そして一番になりました。
若者よりも健常者よりも早く・・・
それにしても若い時はどれほどのものだったかは恐ろしいほどです。


養父は私が中学一年の時リストラされました。
農協が事業縮小したのです。
そして小さな運送業を始めました。
荒々しい運転手たち相手の仕事です。
おだやかな性格もあれば、問題ある性格もあります。
ある日、肩を怒らせて。給料の前借をしようとやってきました。
養父は彼が自分の机まで男が来る距離を素早く計算し、
自分の机までこさせ、柔道のように囲い込み、片手をすばやくとり、
男の手の平をそろばんで恐ろしい力で打ちました。
彼は逃げていきました。
私はどうなることかとはらはらでしたが、
それは養父が戦場で鍛えた戦いのやり方でした。一瞬でした。


またある日。3人のやくざ風の男が来ました。
運送業に事故はつきもの。
うちの運転手が起こした人身身事故の当事者が彼らを雇って、
ゆすりにきたのです。
養父はそれも一瞬で判断しました。
肩をゆすりながら、あの独特の歩き方で威嚇しながらやってきました。
養父がやった戦術。
「いくら貰ってきたんだ。貰った金額よりこっちが多く出そう」ともちかけたら、
承諾して早々に立ち去りました。
これも戦いの一つです。


あるとき、得意先の人と仕事のことで、
和気あいあいと我が家に招いて食事中・・
何か養父の機嫌を損ねるようなことをお客が言ったのか
急に怒り出した養父・・
お客も怒り出し、とうとう取っ組み合いの喧嘩・・
当然のことですが得意先を失いました。


思い出して書いていたら、次々と蘇ってきました。
養父が勤め人をやめてからの我が家は戦場のようなもの。
テレビドラマでは昔、ちゃぶ台を囲んで、
家族がなかよく食事をする懐かしい話が出ますが、
あんな光景は見たことはありません。
私の周囲にもあんなことはありませんでした。
けれども家が戦いの場所のようなことはなかったでしょう。


自動車事故、故障、従業員の問題様々な出来事が夜昼区別なく起こり、
その度に処理しなければならない養父母、
お嬢様育ちの養母にとって、つらかったと思います。
だから、愚痴かわりに過度なほど、出自の誇りを言い続けたのでしょう。
毎日何が起こるかわからない、戦いの日々でした。
続きはまた書きます。



2017年6月27日

2017年6月19日 (月)

エルサルバドルのKさん

久しぶりに多文化サロンに行きました。
毎月行きたいと思うのですが、帰りが深夜10時半になるので、
やはり時々になってしまいます。
でも行ってみると面白く、楽しくやはり行ってよかったと思うのです。


今日のゲストのKさんと書きましたが、お名前はカルロスさんです。
カルロスという名前はすぐスペイン系と想像しますが、
南米の人たちの血流は様々な国、人種が入っていて
それほど単純なものではないようです。
カルロスさんも、肌は薄銅色で顔はインディオ系でしたが
スペイン系、ドイツ系の血が入っていて、
体は全くドイツ系の身体でした。
普通のインデオの人たちよりずっと背が高い(180以上)ようです。


今日は随分多くの人たちが来て、
それほど広くない室内が一杯になりました。
またゲストも話が楽しいので、あっという間の2時間でした。
カルロスさんはハンサムな30歳。
阪大で学んでいる感じのいい若者です。
エルサルバドルの文化、食べ物、地理、建物等笑わせながら、
映像を見せて説明してくれました。


お国は一年中暑いそうです。
エルサルバドルのお国の料理を
今日もまたFさんたちが腕によりをかけて作って下さり、
初めての遠い国の料理を居ながらにして味わいました。
大変おいしかったです。
こんなに大勢の人たちと食事する機会がないので、
それも脳の刺激になってすごくいいです。


けれどもユーモアもまじえて、楽しく話していたカルロスさんですが、
参加者の質問に答えているうちに、だんだん悲しい顔になりました。
この前のベネズエラのときもそうでしたが、
自国はきっと大変な状況なのでしょう。
貧富の差が激しく、
それゆえにマフィアに走る若者がいるのかもしれません。
平和な日本に住んでいると理解できないことですが、・・
毎日人が殺されていく・・・考えられないことです。
平均寿命は64歳で、
殺されていく人たちが多いので寿命が短いのだといっていました。


マフイアを逃れて米国へ行こうとする人たちが今直面している問題が
トランプさんの方針の変更なのでしょう。
治安も悪いらしいですが、日本から観光客も行くようですので、
場所によって異なるのでしょう。
宗教やイデオロギーにより、独裁的になっていく国はありますが、
一個人が独裁者になっていくのが南米に多いのはどうしてなのでしょうか。
なぜ、マフィアが力をもつのか、
道徳的腐敗が進むのか、よくわかりません。


南米の人たちは歌や踊りが大好きな明るい人たちが多いのに・・・
カルロスさんが語るのに、
エルサルバドルでは日本人は尊敬されているということでした。
自動車やアニメ等よりも日本人の道徳性、生活に
尊敬の念をもっているとうことです。
嬉しいことですが、エルサルバドルにも
いつか平穏な時が来るようにと思います。
地球には様々な国があるのですね。


2017年6月19日

2017年6月11日 (日)

マインドフルネス

「マインドフルネス」という言葉自体聞いたことも、
見たこともありませんでした。
ただグーグルが、禅の科学的応用を研究し、
その部署まで作り、社員が仕事を始める前、
一分間瞑想を実践させているということは
何かで読んで知っていましたが。


今まで書店にはその関係の本は並んでいたでしょうが、
関心のない私はそのコーナーにはいきませんでした。
ところがある日、どういう思い付きなのかそのコーナーに行き、
ある本を手に取りました。
それは「26枚の絵画に学ぶ幸せに生きる方法」と表紙に書いてあって、
26枚の絵が出ていたからでした。


本を開いてみて、
一番最初の序章にある絵に強烈に引き付けられました。
私の求める世界を見事に表していたからです。
それは光の画家レンブラントの描いた「哲学者の瞑想」というものでした。
・・・部屋の中に一人の哲学者が目を閉じて静かに座っている。
本は机の上に広げられたまま、
哲学者は何かをじっと考えているような・・・
窓からは太陽の黄金の光が差し込んでいる。
部屋の中では老女がかきたてる暖炉の火が部屋を暖めている。
絵全体が光に包まれている。
じっと見ていると、本物の絵画ではないけれど、
その光の絵の中に吸い込まれるような神秘的な感じさえしたのでした。


早速本を買って・・
表紙の題名は「はじめてのマインドフルネス」でした。
そしてその日から毎日、数ページ読むようにしました。
絵が素晴らしいのです。
26枚の絵を見て、文章を読んでいると、
私自身知らないで少しは実践してきていたことが、
はっきりと明確な形で、証明されたようでした。
・・ああ、やはりそうであったか
・・これは内奥に繋がる教え
・・・科学と禅がわかりやすい方法をとって、
示されているように思いました。
この本にも「マインドフルネス」とは、
仏教の瞑想をもとにつくられた
心のトレーニングであると書かれています。


本の中で「マインドフルネス」という箇所に下記のようにあります。

・・もしあなたが、追い立てられるようにせわしなく何かをしつづけているなら、
あるいは不安にとらわれたり、怒りに駆られたりしているなら、
少し立ち止まってみてほしい。
そして、「今、ここに存在している」ということを意識してほしい。
「今」を意識して生きるーー
それが(マインドフルネス)に生きるということである。
たったそれだけ?と思うかもしれない。
しかし、たったそれだけのことを日々意識し、
積み重ねていくだけで、やがて重荷を下ろしたように
楽な気持ちで生きられるようになるだろう。
それはつまり、過去や未来にとらわれていた心が解放され、
自分を縛っていた「現実」を
違う目でとらえることができるようになるということである。
(13-14ページ)

この本を読み始めてもう一か月以上になるように思うけれど、
ほんの少し読み、絵をじっと眺めていると、
確実に自分の中に変化が起こっていることを感じます。
「今を生きる」ということが観念ではなく、
小さな実践となって自分でも自覚できることとして
自然に表れるようになる・・
そういう体験をし始めています。
絵はすごい力を持っているとあらためて思いました。
この本が名画を使用しているということもあるでしょうが・・・


「今を生きる」「あるがままに」という言葉は聞きなれた言葉として、
客観的にしか受け取れませんでしたが、
毎日この言葉を自分に言い聞かせて生きると、
確かに生活に変化が来ます。
心が落ち着くのでしょうか。


この「はじめてのマインドフルネス」の著者はフランスで
人気の精神科医のクリストフ・アンドレという方です。
フランスでは40万部以上のベストセラーになっているそうです。
絵もすばらしいですが、クリストフ医師の文章は
人の気持ちを優しく包みます。
見事な文章です。


いつもの通り、夫婦で2冊買って、
それぞれが毎日言葉をかみしめ、絵に見入っています。
絵と言葉・・深く深く、自分の内部に入っていくようです。
「今を生きる」・・・私の日々の言葉としています。


2017年6月11日

2017年6月 3日 (土)

足場鳶の仕事

前にも我がマンションの大規模修繕工事のことを書きましたが、
めったに見られないとび職人の特に目にした「足場鳶」の人たちのことを
是非書いておかなくてはと思って・・
足場鳶の人たちのことを「現場の華」ともいうそうです。


高所の作業は危険と隣り合わせですが、
そのスーイ、スーイと飛ぶように動く人たちのことを
まさに華として、形容したのでしょう。
さもあらんと思います。
日本の鳶職の人たちの技術は世界でも自慢できるものかもしれません。
そしてあの独特の衣装。日本人の美意識も感じます。


私は家の中にいて、
組み立てられた足場がどのように解体されていくか眺めていました。
すだれを下して暗くしているので、外部からは見えません。
とび職人さんたちの貴重な働きの瞬間を
すぐ目の前で見せていただきました。
言葉にならないくらい、見事な仕事振りでした。
足場は組み立てるよりも、解体の方が更に難しいと思われます。
少しのミスも許されない仕事、緊張を強いられる仕事、
けれども誇りを持っているんだなと、
とび職さんたちに近くで接して感じたことでした。


エレベーター内でもよく会いましたが、皆さんやはり若い方ばかり。
会うと真っ白い歯を見せて「今日は」と言ってくれます。
ときには腰の周囲に金属のカギ様のようなものを沢山ぶら下げているので、
「ガンマンみたいね」というと、
「よくそう言われます」と嬉しそうにしてました。
20種類ほどの道具は5キロくらいになるのですって。
命綱をつけて、お互い掛け声をあげて、
重い鉄パイプを一本一本、外して肩に担ぎ、
足場特有の通路をどんな高い所でも、全く普通の道のようにして、
さっさとパイプを下す場所まで行きます。
それを何度も繰り返すのですが、
パイプを外す順番のミスは許されないでしょうね。
間違えたら足元がぐらぐらして、大変なことになりますから。


相方の若い鳶の人が何度も「すみません」と言ってました。
ミスは許されないのでしょう。
先輩格の人は緊張を和らげるように、冗談をいいながら、
たわいない会話を入れながら、仕事を進めていました。
鉄パイプは一本づつ、上から垂らしたロープで吊り下げ、
下まで一気にズドンと落とします。
下でそれを受け止めた人は、すぐパイプを器用に整理し、
次に使用できる体制にしておきます。
この連携作用は、見事です。無駄がありません。
それを何度も何度も繰り返すのです。
みるみるうちに足場は解体されていきました。


三か月間、網に覆われていた不自由さに
愚痴の一つもいいたくなったことでしたが、
こうきれいに取り払われてみると、何となく寂しさも感じます。
天邪鬼もいいところです。
私のマンションはAからKまであり、
3000人が暮らす大マンションです。
工事は来年まで続いていきますが、私の棟は今月で終わり。


次の修理は12先でしょうか。
大修理か建て替えか私のマンションも大きな問題をかかえるでしょう。
12年先、誰にもわかりません。
確かなことはこの豊かな緑に囲まれた大きなマンションは
45歳くらいになります。
かなりの年齢です。
45歳のマンションと73歳の私と・・・
年齢は違っても耐久年齢は同じでは?・・・
足場鳶さんが、解体を終えて去っていきます。
まさに鳶のように。
でもまだまだ他の棟で、20階位の上の方で、
平気な顔して作業してます。

**************

 足場鳶について、ネットで探したら、こんな説明がありました。
やはり、すごい仕事です。

 

足場とび

建設業界では、昔から「建設はとびに始まり、とびに終わる」と謳われ、高所を自在に動き回れることから「現場の華」とも称されてきた。とび職人はまず、どの業者よりも先に工事現場に入って仮囲い(現場の柵)を組み、タワークレーンを設置して建物の基礎となる鉄骨を建てる。目もくらむような地上数百メートルの高所でも他職が安全に工事できるよう、最初に足場を設置して作業場所を切り開くのも、とび職の役割だ。足場、鉄骨、重機をそれぞれのとび職人が適切に設置して初めて、他の職人は現場に入れる。つまり、とび職人がいなければ工事は始まらないし、とび職の仕事が充分でないと、その先の工程へは一歩たりと進めない。だから、「とびに始まり、とびに終わる」とまで言われるのだ。

*********

とび職人は見習いから始まり、先輩職人の厳しい指導を受けるのも日常茶飯だが、現場の安全と工事の成功を根本から支える責任はそれだけ大きく、重い。職人が自らの仕事に誇りとやりがいを見出すことができる理由の一つだろう。無事に竣工すれば、足場も、鉄骨も、重機も、とび職人が手がけた仕事は何一つ、目に見えるかたちでは残らない。だが、完成した建造物を見上げたとき、そこに何物にもかえがたい達成感と満足感を得るのだという。

 

そんなとび職人に求められる資質は、第一に根性と体力。精神的にも肉体的にも厳しい仕事だけに、この二つがなければ続かない。高所での作業は一瞬の油断も許されず、かといって、慎重に過ぎてははかどらないので、高い集中力と判断力、そもそも高所に対して恐怖心が弱いことも適性として重要になってくる。ただし、これは慣れの要素が大きく、極端な恐怖症でもない限りは克服できる条件といっていいだろう。

2017年6月3日記す

2017年5月26日 (金)

太鼓まつり

村祭りの歌です。素敵なのがありました

5月とは思われない暑い日です。
京都も山陰も長野と広範囲にわたって30度以上です。
はて、どうしょうかなと少し考えたのですが、
気をつけておかしくなったら帰ることにしょうと
夫と「太鼓まつり」に行きました。
いつものことですが、「行きましょう」というのは私の方・・
「ああ、行くよ」というのは夫です。
 好奇心というのは、私の方が強いのかもしれません。


水を持っていきましたが、野外音楽堂です。
暑いです。
野外ですからかなりの広さです。
すでに数百人は来てました。
「ドーン、ドーン・・パシッ、トントン」という音が周囲に鳴り響いています。
でも不思議なことに、太鼓の音は
どんなに大きくても騒音には聞こえません。
お腹の中にドーンと来る、何か鍛えられるような音なのです。


太古から様々な国の人々は、太鼓の音と共に生きてきたのです。
太鼓は神々への祈りにも欠かせないものであり、
日本の場合も神事と結びついていたのでしょう。
出演者はそれぞれの工夫の衣装を身にまとい、
男性も女性も勇ましい恰好で、力一杯、掛け声をだしながら、
大太鼓、小太鼓、笛、銅鑼、あるグループは踊りも披露してくれました。
だいたい、衣装は黒と赤の色彩です。
これは縄文の色ですが、若い人たちがニコニコしながら
打ち続けている姿に、やはり来てよかったなと思いました。
(でも、暑いことでした)


感激したのはろうあ者の方々の演奏です。
はじめは知らないで、すごく心に迫るような打ち方だなと思ったのですが、
後の説明でろうあ者の皆様の演奏だと知りました。
ろうあ者の人たちは自分では太鼓の音は聞こえない。
太鼓の響きを体で感じ演奏しているのだそうです。
10名ほどの男女の人でした。
見事な演奏でした。
顔が輝いていました。


またろうあ者の人たちと健常者の方たちの合同演奏もあったのですが、
よく見ていると、ろうあ者の方々は太鼓の響きを感じるとともに、
常に健常者の打ちおろす太鼓の撥に注意し、
遅れないように合わせていました。
おそらく、すごく神経を使っての演奏だったと思います。
偉いと思いました。
これだけでも、今日来た甲斐がありました。
私も元気が出てきました。


全部見たかったのですが、やはり暑さの中、無理は禁物。
特に高年配の夫を誘った私には責任があります。
帰り、駅前の蕎麦屋で蕎麦をためたのですが、
店内に
「村の鎮守の神様の今日はめでたいおまつりび・・
ドンドンヒャララ ドンヒャララ・・・」とまつりの歌が流れていました。
太鼓まつりその通りの歌でした。
帰り路、夫と歌ってみるのですが、
歌詞が思い出されず、ハミングです。
でも元気になる、嬉しくなる歌です。


2017年5月26日 記す

2017年5月18日 (木)

母の日に思うこと

母の日の赤いカーネーションがついこの間まで、店頭に売られ、
いたる所にお母さんの笑顔が輝いた、ポスターや絵が貼ってありました。
昔に比べるとお母さんという概念も変わってきたのか、
むしろ親子間での問題がしょっちゅう出てきて、
人生相談でも大きな深刻な悩みとして取り上げられています。
これは一人一人の意識が人間として目覚めはじめ、
親子も母と娘もあるいは夫婦も
個という意識体として生き始めたのではないでしょうか。
私は否定的には考えません。
他者に依存しないで、他者を思いやる。
これが大切なことだと思っています。
個に目覚めて、他者を思いやる。
こうできたらいいと私は思います。


私の実母は2歳と5歳の幼い子供を残して彼岸に旅立ちました。
突然襲った盲腸が体内で破裂したのです。
その年は終戦の年であり、日本は大混乱に落ち、
日本の食量の一端をまかされていた父は大きな責任を負っていました。
国の農場で働いていた人たちの多くは兵隊に行き、
農場にいた男手は数人だけ。
その人たちが戸板に母を乗せて
1時間か2時間かかる病院まで必死に運んでくださったのです。


急性盲腸炎でした。
母のお腹の中は破裂状態だったのでしょう。
母のお腹には子供がいました。
その子は病院に運ばれる途中体外に出て死んでしまいました。
私の妹となるべき子供でした。
それから母は2か月足らずでこの世を去っていくのですが
母は自分の体の痛みと苦しみよりも
後に残す2人の幼い子供のことだけを考えていました。


母は知っていました。
自分亡き後、夫(私の実父)は子供を育てられないということを。
終戦のどさくさの中で公の後始末で忙殺されている父には
母と私たち子供のことを顧みる余裕はありませんでした。
実父の遺した手記には妻と子どもたちが何を食べていたかもしらない。
どうしていたかも知らないと書かれています。
母はそのような状況の中、
「私が死んだら子供たちを頼みます」とは言いませんでした。


そのときの母は死が迫り、身動きできないからだの中で
気持ちというか意識だけが必死に子供の保護者を求めて
それこそ宇宙空間を飛んだのでしょう。
行方も知れない義理の兄のもとへ飛びました。
母の義兄はシベリアに抑留されていました。
抑留地シベリアである夜、母が枕元に立ったそうです。
これは大変なことが起こっていると変事を察した義兄は
どんなことがあっても日本に帰ると心に決めたそうです。


5年の後、義兄は日本に帰りました。
もちろん母は亡くなっていました。
母は死んでいくことをシベリアの義兄に伝えたのでしょう。


「久子はね。お前たち(私と姉)を本当に可愛いがったんだよ。
まるで宝物のようにしてね。決して久子のことを忘れてはならないよ」・・
遠く(北海道)から私たち姉妹に会いに来てくれる祖母が必ず言う言葉でした。
私には養父母がいるのに、
だからこそ祖母は私の実母を忘れるなと必死になって教えたのでした。


祖母にいわれるまでもなく、忘れることはありませんでした。
姉は叔父の所へ養女に行き、私たち姉妹は離れ離れでも、
お互い母を忘れるどころか心の中で母と共に生きて来たようなものです。
母は彼岸に着いても、ものすごい念波を私たちに送ったのかもしれません。
「お前たちを守る」と言い残した母・・
強い母の子を思う意志は時空を超えて
私たち姉妹の内部に入り、共に生きたのかもしれません。


母が私の中から離れたなと感じたのは11年前、
実父が亡くなってしばらくしてからでした。
今も母のことは懐かしく思うのですが、何か軽い気持ちになったのです。


ある日の夢の中で、私の実父母が一緒に去っていきました。
母は彼岸で父が来るのを待っていたのでしょうか。
私たち姉妹はもう大丈夫と安心したのでしょうか。
今でも思い出す不思議な夢です。


実父が亡くなって数日後、私は夢を見ました。
(私は夢を見ているとき、その鮮明さに夢だとは思えません)
私を棄てたと思って心の中で反逆していた私に、
父が書いたノートと小さな幼女のはく靴下が出てきました。
その靴下は幼い私の靴下。
ノートに書かれた文字は私への思い。・・・・・
私の心は父の愛でいっぱいになりました。
「俺はあの子のことをいつも思っている」と
人様に言っていたそうですが、その通りでした。
死後私への思いを伝えたのでしょう。
泣かない私は泣きました。


共に暮らすことはなかった実父母、
でもその愛は時空を超えていました。
私があの世に帰ったとき、実の父母と会えるでしょうか。
会いたいと思いますが、
父母は私たちのことはもう安心して、
あの世の生活にすっかり慣れているかもしれません。


2017年5月18日

2017年5月 9日 (火)

私のお墓

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空は青空、熱くもなし、寒くもなし、心身共に心地よい。
ということで3年振りに京都のお墓に行ってきました。
まだ誰も入っていない空の墓です。
夫と私のために7年前に購入しました。


あの当時私たちの思いは土に帰りたいということで、
植樹墓に憧れ、探して探して、
大阪から京都は少し遠いですが気に入ったのですぐ購入して、
言葉と私たち夫婦の名前も刻んだのでした。
宇治の平等院から車で10分の山の中の広大な公園のような美しい場所です。
2年前にMカトリック教会の納骨堂を買い求めたのですが
墓は2つもいらないし、墓を見比べて、やはり大空の中、
花と緑と川のあるまるで
パラダイスのような公園墓地の方を最終とすることにし、
教会の納骨堂は廃止することにしたのです。


この植樹墓地はいったん購入すると永代で、
某業者のように10年とか20年たったら共同墓地に移動ということはなく、
内部の骨が完全に土に帰ることができます。
それがとても気に入ったのです。


3年振りの私たちの墓は変わりなくそのままありました。
小さな墓の前には細いきれいな川が流れ、
墓の上部には芝桜が美しく咲いていました。
今日は日曜日で家族の人たちが何組かきていました。
墓の前で声を出してお経を唱えている人、
きれいな花を置いて、墓を何度も撫でていく人、
それぞれの思いを感じます。


私はなぜか墓が大好きです。
この静謐な雰囲気が何ともいえません。
そよぐ風、色とりどりの花、よく管理された清潔な芝生、
天国があるならばこんな風景かなと思います。
いつまでもいたいなと思いつつ、
二人で自分たちの墓を見にくるのはあと何度かなと思ったり・・・
いつかは一人で来ることになるのでしょう。


墓所の帰りはいつも平等院に寄ります。
本当に近いです。
今日は沢山の内外からの観光客でした。
平等院の美しさもですが今日は特に藤の花が美しくて、
見とれてしまいました。



2017年5月9日

2017年5月 2日 (火)

大規模修繕工事の真っ最中

戸建ての家に住んでいる方にはわからないでしょうが、
マンションの大規模修繕工事はそれはそれは大変な工事なのです。


私のマンションはこれで3度目になります。
3度目といいますと、だいたい10年から12年に一度ありますから、
3回目というと築後30数年ということになります。
3回目だから慣れているということはありません.
毎回、修繕するところが少しちがいますし、
業者によってやり方はちがいます。
今工事をしている業者さんは丁寧過ぎるくらい丁寧です。
予定通りでしょうがようやく、2か月でベランダ側が95%ほどできたようです。


マンションの建物を完全に覆ってしまうので、
それも黒いシート(網目あり)で覆うので、
太陽の熱は当たりが少なくなり、
建物のコンクリートが冷えて外よりも温度は低くなり、
5月になるのに、小寒いことです。
ちょうど墨色の蚊帳に一日中覆われているような感じです。


何やらぶつぶつ書きましたが、面白いこともあります。
普段見ないこと、お目にかかれないことなど、見聞きできます。
足場を組むときなどそれはすごいものでした。
音もギーギー、ガーン、ガーン、ザーという大きな音。
そして室内からとび職の人の働きが丸見え・・・
あの独特のスタイルで、命綱をつけてやっていました。
狭い通路を思い鉄パイプを担ぎ、組み立てていくのです。
これは頭が要るなあと思いました。
かっこいいというか勇ましい感じです。


足場が終わるシート貼り・・
それにはまた違うスタイルの人たちが働きはじめました。
うっかりしてベランダのガラス戸をあけると、
工事中の人と「こんにちは、ご苦労さまです」ということにもなります。
みなさん若い人が多く、顔を合わせるとニコとして挨拶を返してくれます。


それにしても日本人の見事なまでの組み立て工事。
どうしてこんなにミスなくできるのかと不思議です。
シート貼りが終わると今度はペンキの下地処理です。
これには女性も男性に交じって働いています。
ペンキだらけの作業着、ヘルメット姿にびっくりしましたが慣れました。
顔を合わせたらきれいな若い女性でした。
やはり男性だけの工事仕事より、女性が入ると楽しいのでしょう。
仕事しながらの会話が弾んでいました。
何の話か聞きませんでしたが。


ベランダの工事中や塗装中は
ベランダ側のカーテンはしてくださいということで、
これはかなりうっとおしい状態になります。
時々やはりふーとため息・・
強いシンナーの臭いを嗅いで、室内にいるのはかなり大変です。
でも私たちは塗装のときだけですが、
この仕事をしている人はこれが常態ですから、
健康面で大丈夫かなと思ったりします。


見ていると危険な仕事であることがよくわかります。
安全面のこともあり、かなり重労働な仕事です。
ミスが危険をともなうので、監督の人の責任は重く、
一日の最後に点検しています。
日ごろお目にかからない、職人さん、工事現場の人たちです。
日本人の仕事振りに今更ながら感心し、誇りに思ったことです。
まだ2か月続きますが、きれいにしてもらうのですから、ありがたいです。


みなさん、気を付けて、働いてくださいという気持ちです。
何しろ10階とか15階の建物ですから。
高層建築の現場で働く人たち、
毎日危険と背中合わせの人たち、本当に感謝です。
これからもこういう工事を他所で見たら、
この数か月働いてくれた人たちを思い出して、感謝したいです。
年配の人、若い人、一家の大黒柱のような人、
女性、様々な人たちがいました。
60前後の女性もヘルメットをかぶって・・


2017年5月2日

 

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