映画・テレビ

2015年3月 3日 (火)

映画エクソダス「神と王」

興味のある方はご覧ください

人によってそれぞれ見方がちがいます

http://www.cinematoday.jp/movie/T0017348/video/4368

今年も無事確定申告を税務署に提出できました。
その帰り、まわり道して、話題の映画「エクソダス」を夫と観にいきました。
教会でチラシをもらってから、二か月・・・・
行きたいなあと思い続け、その間にインフルにかかったり、
夫が自治会で忙しかったり、税務をしたりで遅くなって、
もうおしまいというところでようやく行くことができました。
それだけ興味があったのですが・・・あったのですがと書いて、
何か悲しい気持ちです。

すばらしかったですよと誰にでも言えることを自分でも期待していたのです。
映画を観て、その後食事をしている頃には印象が消えてしまっているのです。
昔10代の頃に観た「十戒」の魂を揺さぶるあの感激は今でも忘れることができないのに。
どこがどう違うのか・・・それははっきりしていることは、
監督に神への信仰がないのではと思ったことです。
聖書に忠実ではないことは受容できても(多過ぎるくらいある)、
この映画からは大なるものへの畏怖とか信仰が伝わってこないのです。
モーゼやヘブライの民から神への信仰を除いたら、ただの人間集団になってしまいます。
もっとも監督は人間モーゼを描きたかったそうですが。


私はちょうど日々の日課として毎日旧約聖書(バルバロ訳)を1章づつ読んでいるのですが、
今出エジプト記で映画の場面のところを熟読しています。
ヘブライ人の家のかもいと二本のかまちに傷のない子羊やの血が塗られました。
神はエジプト人の長子を殺されたのです。
生贄の羊の血が塗られたヘブライの家の長子は救われました。
そして急いでエジプトを脱出するのです。
その日を祝って過ぎ越しの祭は3300年の時を経ても、ユダヤ教徒によって祝われているのです。
驚嘆すべきことです。
(この2000年前の過ぎ越しの祭の準備の日、イエス・キリストの受難があったのです。贖いの子羊として)


映画では40万人(聖書には60万人)とありますが、これは男だけの人数であり、
女性と子供の数を入れると100万前後だろうといわれます。
また他国人も含まれていたとあります。
それに羊、ヤギ、牛を連れての群れです。驚愕すべき人数です。
そしてヘブルの男たちは武装をしていたとあります。
これは映画の通り、エジプトの軍事の知識も持っていたモーゼが指導したということもいえます。
100万を超える大集団を率いたモーゼの苦労は並大抵ではなく、モーゼはしばしば神に訴えています。
小さな国が動いているようなものです。


聖書によると、神はモーゼを選び、モーゼを通して働かれたのです。
神が働かれたのです。
決して神に選ばれたモーゼが自分の力を用いて事を行ったのではありません。


この映画「神と王」を見てここまで人間を中心に描くのかとがっかりしましたが、最近の世相、人間の考え方を知った意味においては、よかったことです。
でも、もう人間だけが偉いのだという視点の作品は盲目の人が盲目の人を導くような感じがします。
絶対的な力をもつ神意識を持つ必要はありませし、間違っていますが、
見えない大いなる存在に対する畏敬の念を思い出したほうがいいと思います。

********(参考として)

彼(モーゼ)は、寄せ集めの奴隷集団をイスラエルの民に変容させた、偉大な民族指導者であった。彼は神が“顔と顔を合わせて”語りかけた(出・11)卓越した指導者であった。(申3410)彼はまた、その民のために執成しをする“神のしもべ”でもあった。(民1278)そして神の律法を受け取り、それを民に伝える契約の仲介者であり、イスラエル人の偉大な宗教指導者であった。モーゼには多くの制度の創設が帰せられており、彼はイスラエルの宗教民族共同体の創始者となった。とりわけ彼は、族長たちの唯一神に対する信仰を民族宗教に転化し、それによってユダヤ教、キリスト教、イスラム教という3つの世界宗教の基盤が作られるのである。(聖書大辞典:新教出版社)


2015年3月3日

 

 

 

 

 

2014年9月 2日 (火)

映画「大いなる沈黙」

「主の御前には非常に激しい風が起こり、

山を裂き、岩を砕いた。

しかし、風の中に主はおられなかった。

風の後に地震が起こった。

しかし、地震の中にも主はおられなかった。

地震の後に火が起こった。

しかし、火の中にも主はおられなかった。

火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」列王記11-12

最も厳しい修道院といわれるフランスアルプス山脈に建つ

グランド・シャルトルーズ修道院の映画です。

冒頭の言葉は、映画のはじめに出てくる聖なる言葉です。

さまざまな俗音の喧噪の中にいて、感覚が麻痺してしまった現在、

このような静かな、沈黙の世界に生きる人たちがいるのだいうことに

驚きと喜びと安心を覚えました。

見えざる大いなる存在である神を信じ、従う人々。

かくまで自分を放棄し、清貧に生きる人たち。

そしてその姿の中に真の自由が溢れている。

盲目の老いた修道士の中に。

「死は喜びです。神に近づくことです。」と修道士は微笑みながら語る。

地上の荒れ狂う欲望の世界に、

ふと高き山を見上げるとそこには美しい光があった。

あの光が消えない限り、この世は大丈夫・・・・私はそう思ったのです。

この映画の詳細はここをご覧ください。

(9月1日、夫と観に行きました)

http://dacapo.magazineworld.jp/cinema/149305/

2013年12月 9日 (月)

映画「愛、アムール」

何年ぶりかに、近所の映画館に出かけました。
以前は毎週のように行っていたのですが、
テレビの画面が大きくなったのと、
テレビでも様々な種類の映画が楽しめるので、
映画はとんとご無沙汰でした。
久しぶりの映画館は観客が少なく、殆ど年配ばかりでした。
まあ、それもそうでしょう。
今日の映画の主題は「愛、アムール」というフランスの映画で、
年老いた夫婦の晩年の赤裸々な、生の真実の姿を描いた映画ですから。

共に音楽家であり、
裕福な老後の生活を瀟洒なパリのアパルトマンで暮らす
老夫婦の物語です。
食事の最中、急に無表情になり、
夫ジョルジュの話しかけにも応じなくなる妻アンヌ。
それはしばらくのときであるが、また、そのような事態が繰り返す。
そして検査と手術の結果、アンヌは半身不随になってしまいます。


それからです。
夫ジョルジュの介護の生活が始まったのは。
アンヌは「もう、二度と病院に行かせないと約束して!」と言います。
「ああ、行かせないよ」とジョルジュ。
けれども日を追うて状況は悪化し、
まさに日本でも問題になっている老々介護のすさまじい生活が、
遠慮なく、リアルに描き出されています。
共に80歳を超えたフランスの俳優の演技の見事さ。すごいです。

いつまでも一緒にいたいと願う夫婦。
しかしそれを維持する状況ではなくなっていきます。

映画の夫婦は裕福で、
自分で看護師や医者を頼んで、給料を払いますが、
それは普通の人にはできないでしょう。
けれど、そのような夫婦であっても、
老々介護は、並大抵のことではありません。
次第に認知症も出てきて、意志も通じなくなるアンヌ。

オムツ、風呂、食事、身体の不快さと痛み
・・・それに対応しようと必死の老いた夫。

これは世界共通の人間の姿であり、
どこの国の人であっても心に迫ってきます。

・・そして最後。夫は妻を殺しました。
枕で妻の顔を押えて、窒息死させました。
そしてジョルジュは半分は精神を病んだように、
幻覚の起こるまま、自分から家を出ていってしまいました。
行き倒れたか、どこかで保護されたか映画は何も語りません。
ただかなりのときを経て、老夫婦の室から、悪臭がしてきて、
とうとう消防署員が入り、腐敗しかけたアンヌを見つけたのです。

日本でもこのような話、しょっちゅう聞くようになりました。
・・私は80歳、90歳になったらこんな状態になるのでしょうか。

隣の夫、はじめは居眠りをしていましたが、後では目が覚めたようです。
私の後ろの知らない方。
・・・・ぐーぐー寝息を立てていました。気持ちよさそうに。

これではまだ大丈夫ですね。


2013年12月9日

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